幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である
カール・ヒルティやバートランド・ラッセルの『幸福論』と並んで「世界三大幸福論」の一つと称されるのが、アランの『幸福論』。これはその中の第87「克服」の章より抜粋した。この手の本にありがちな論文的内容ではなく、全編がプロポと言われるエッセイ風で綴られているため読み物としてもおもしろい。
アランはなぜ幸福を克服の中に見たのか。
わかりやすく言えば、こうだ。
「学問は遠くから眺めていてもおもしろくない。学問の世界に入り込むことが必要だ」
そう、何ごともやってみなければ、おもしろさはわからない。
さらに、本当のおもしろさを体験したいのであれば、ある一定期間はつづける必要がある。
そのときに必要なのが克服。
勉強にしろ習い事にしろ、本を読むことだって、慣れないうちはむずかしい。
だから最初は無理矢理でもその山を越えねばならない。
規則正しく、体に教えこんでいく。
ひと山越え、ふた山越え、山越えするたびに、冷たい水が渇いた喉を潤すように、克服した幸福感は全身に染みわたる。
それのどこがおもしろいの? というような趣味もある。
だけど、やっている本人は楽しくてしかたがないのだ。
自分なりのルールにしたがって趣味を楽しみ、レベルアップしてゆくことが。
だれのためとか、評価を得ようとか、見返りなどまったく考えない。
ただ好きだから、楽しいから、おもしろいからやっているだけ。
これが、アランが説く「幸福」のひとつのかたち。
「幸福を世界の中に、自分自身の外に求めるかぎり、何ひとつ幸福の姿をとっているものはないだろう。
ボクシングの好きなボクサー、狩猟の好きなハンター、政治の好きな政治家も、自由な行動だから幸福なのである。自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである」
(171220 第384回)