自分の生命を賭けて惜しくないほどの対象があった場合、それが生きる目的になるのではないでしょうか
山に魅せられ、岩壁登攀にのめり込んでゆく二人の女性が、世界で初の女性隊によるマッターホルン北壁登攀に挑もうとする、新田次郎の小説『銀嶺の人』から抜粋した。主人公の一人、若林美佐子がもう一人の主人公、駒井淑子にはじめて自分自身のことを語るシーンでの一節である。
このセリフに行き当たったとき、「ああ、そういうことだったのか」と、目の前が開けたような気がした。
「生きがい」と「やりがい」は違うのだと。
人から喜んでもらえることは「やりがい」にはなっても、それが必ずしも「生きがい」になるかと言ったらそうではなく、命にかえても惜しくないものが「生きがい」になり、それが生命維持装置になるのだな、と深く感銘した。
いろんな健康法をためすより、生きがいを見つけたほうが心身ともに健康ではないかと。
「やりがい」は他者目線の評価ありきだから、そのときどきで一喜一憂してしまうことにもなりかねない。
しかし、「生きがい」はちがう。
自分の命にかえてもやるとなれば、他人の評価はもちろん、誰に何を言われようと関係ないのだから、何が何でもやり続けようとするだろう。
画狂人と呼ばれた葛飾北斎は、まさに「生きがい」を手にした人だった。
88歳でこの世を去るまで、取り憑かれたように絵に没頭していたという。
70歳までに描いたものは取るに足らないといい、86歳になればますます腕は上達し、100歳を越えて描いた作品こそ生きたものになるのではないかと、老境に入ってもなお高みを目指した。
「目的が決まったとき、すべて迷いは消えたと思います」
美佐子はまっすぐに言う。
もしかすると、人の願いはただひとつ。
命を懸けられるものに出会うことなのかもしれない。
(171226 第386回)