知ることは越えることです
長生きしたければ僧を見倣えとは誰の言だったか。僧侶は往々にして長命であるというのは事実らしい。人生100年時代と言われる近年以前からすでに、僧侶たちの寿命は長かった。寝たきりになることも少なかったに違いない。
この人も例に漏れず、101歳でこの世を去った。龍源寺元住職、松原泰道老師である。生前、和尚は禅のことばをわかりやすく、市井の人たちに説いていた。その理由がこの言葉に集約されている。
禅の真髄は「不立文字、教外別伝」と言われる。
にもかかわらず、禅語は無数に存在する。
なぜか。
禅のこころは執着しないことにあるからだという。
だから不立文字も教外別伝にも執着しない。
なんだか適当すぎるようなしないような…。
まあとにかく、禅は禅であって禅でない。
それくらい器の大きな、この世を超越した空(くう)なるものだということ。
知ることは楽しい。
ちょっと偉くなったような気もするから。
だけどもっと楽しいのは、それが身についたとき。
知識が知恵に変わったとき。
子供たちが「なんだろう」と好奇心のおもむくままに動くのは、知ることを越えようとするからだろう。
「知りたい」が「やってみたい」に変わり、うまくいけば「できた!」という喜びをもたらす。
しかし、ここから肝心。
「できた」から「できる」ようになるには時間がかかる。
「できる」と言い切るためには、刻々と体に刻み込むように覚えさせる必要があるのだ。
そこで不立文字、教外別伝が生きてくる。
本当に「知る」ということは、文字や言葉では伝えられない。
自らが体験し、身を以て知ることが本来の「知る」であり、知ることを越えることなのだから。
何か事を成そうと思ったら、不立文字、教外別伝。
ひと刻み、ふた刻み、体に刻印していこう。
(180206 第400回)