吾を以て汝を敬し、汝を以て吾を敬す
仏典で説く「お辞儀」の意である。日本人が当たり前のように慣れ親しんでいるお辞儀も、本来の意味を知る人はそう多くないはず。お辞儀の意味をちゃんと理解すれば、さまざまな悩みや問題もたちどころに解決するのではないだろうか。陽明学者の安岡正篤は、仏典が説く「お辞儀」の意味を再認識せよと、現代の日本人に警鐘を鳴らす。
人間関係において「挨拶をする」ことは基本中の基本。
子供の躾にも、挨拶はかかせない。
挨拶は、相手に対する礼儀だと教える。
では、お辞儀はどうだろう。
目上の人に対するときやお礼を述べるとき、謝罪をするときは、たいていその言葉を重々しくする要素としてお辞儀が存在しているような気がする。
多くの人が、「相手に敬意を表する」ことがお辞儀だと思っていることの表れである。
しかし、これは第二義のお辞儀。
本来のお辞儀、第一義のお辞儀は相手を敬することではなくて、「自らを敬す」ことだなのだとか。
それが、仏典の説くお辞儀。
「吾を以て汝を敬し、汝を以て吾を敬す」
自らが相手に敬意を表すると同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表することこそ、お辞儀の本意。
つまり、「鏡の法則」と同じ。
良くも悪くも相手から受け取るものは、自分が相手に与えているものそのものだということ。
さらに言えば、自分自身に対する扱いが行動に表れているといっていいだろう。
安岡正篤も言っている。
挨拶やお辞儀は人間だけの行為だと。
「鳥獣はお辞儀をするということを知らない。……まだ精神生活が発達していない。人間になると初めてそれが発達してきて、お互いに挨拶をする。お辞儀をするということは、お互いに相敬するということであり、自ら他に挨拶をするということは、同時に他を通じて自己を敬すということだ」
お辞儀とは、他を敬いながら自己を敬うこと。
挨拶やお辞儀がきちんとできているかどうかは、突き詰めれば、自己を敬い大切にしているかどうかにつながっている。
(180531 第435回)