夫(そ)れ学は通(つう)の為に非ざるなり。窮して困(くる)しまず、憂えて意(こころ)衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるが為なり
孟子と並び称される、孔子の門より出た荀子の言である。人間の本性は善だとする理想主義の「孟子」に対し、人間というものは教えないと悪い方へいってしまうという性悪説を説いた「荀子」。日本では「論語」と「孟子」は人気だが、現実主義の「荀子」はあまり読まれていないという。リアリストのリーダーは別として…。安岡正篤の『知名と立命』より抜粋した。
何のために学ぶのか。
学ぶことに何の意味があるのか。
「学び」と一言で言っても、学び方、学ぶものは無数にある。
学校教育においての学問は、知識を蓄えることに重きを置く。
それはとりもなおさず、進学するため、就職するため、立身出世のための必須の手段に他ならない。
収入を得て、生活をしていくためには必要だから。
しかし、それだけでいいのだろうか。
立派な肩書も、巨万の富も、身ぐるみ剥がしてしまえばただの人。
人がただの人になったとき、何を拠り所として生きていくのか。
困難な問題にぶつかったとき、何かに失敗したとき、不安や動揺に心が支配されたとき、泰然自若としていられる人は、はたしてどれだけいるだろう。
嬉しいときは喜びを、悲しいときは悲しみを表現したとしても、取り乱したりうろたえることなく、心平らかに静かにいられる人こそ真に学ある人なのだろう。
荀子は言う。
「夫れ学は通の為に非ざるなり。窮して困しまず、憂えて意衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるが為なり」
(本当の学問というものは、立身出世や就職のためではなく、窮して困しまず、憂えて心衰えず、禍福終始を知って、惑わないためである)
知識を詰め込むだけでは、頭ばかりが重くなって転んでしまう。
本当の知識人は、知識を知恵に変え、教養に変えられる人なのだと思う。
(180606 第437回)