心眼が優れている人は物の裏側まで見える
文芸評論家、小林秀雄の言葉。昭和36年から53年の間に5回訪れた九州で、学生たちに講義をし、対話を重ねた記録集『学生との対話』から抜粋した。小林の肉声が文字を通して聞こえてくるようだ。
この言葉には前置きがある。
「ベルクソンは、人間は眼があるから見えるのではない。眼があるにもかかわらず見えているのだと言っている。僕の肉眼は、僕の心眼の邪魔をしている」
そしてこうつづく。
「心眼が優れている人は物の裏側まで見える」と。
ベルクソンの「人間は眼があるから見えるのではない。眼があるにもかかわらず見えているのだ」というのは、どういうことか。
歴史を振り返るとき、年号や出来事、人物名を暗記することは容易い。
しかし、それだけで歴史を知ったことにはならない。
それぞれの背景を知ることはもちろん、遠い昔に思いを馳せながら想像力を働かせ、人物や出来事に向かい合う。
あたかも自分がそこに居合わせたかのように、あるいは、歴史上の人物になったかのように心を通わせる。
そうすることで見えてくるものは、必ずあるはず。
歴史だけに限ったことではない。
芸術作品に触れるときも、作品とじっくり対峙することで作者の目線が浮き上がってくることがある。
人との関わりもそう。
相手の立場に立ってこそ、心の奥に秘められた思いに触れることができる。
眼があるから見えるのではなく、眼があるにもかかわらず、その眼に頼らずとも心の眼で見ることはできるということ。
「本当に生きた眼というのは、肉眼の中に心眼が宿っているんです」
死んだ魚のように濁った眼では物事の裏側や本質を見抜くことはできない。
ピュアな心と曇りなき眼で、まっすぐに物事を見つめてみよう。
霧が晴れるように、明らかな世界が広がり、暗きところも見えてくるにちがいない。
(180618 第441回)