「生きがい」と呼ぶべきものは、人間が、生きようと強く感じるときよりもむしろ、生かされていると感じるところにその姿を現わす
つい最近、NHKの「100分de名著」で取り上げていた神谷美恵子の「生きがいについて」。この言葉の出所は、そのテキストからのもの。批評家であり随筆家の若松英輔氏による神谷美恵子の「生きがい論」の分析である。
「生きがい」とは何か。
ある人は仕事に、ある人は趣味の中に、我が子やペットに生きがいを見出すという人もいるだろう。
「生きがい」とはいわば、「よろこび」とも言い換えられる。
「はあ〜、この一杯のために生きているんだよな〜」
いつだったか、そんなセリフのビールのCMがあった。
神谷美恵子のような崇高な「生きがい」ではないかもしれないが、それでもどこか通じるものがある。
五臓六腑に染みわたるよろこび。
眠っていた細胞が目覚めるようなよろこび。
それはたしかに、生きていることを実感する瞬間である。
心臓や脳をはじめ、体の臓器は自分の意思とは関係なく動きつづける。
眠っているときも心臓は健気に動いているし、細胞は目まぐるしく新旧入れかわっている。どんなに生きる気力をなくしたとしても、お腹は減るし髪も爪も伸びてくる。
何かの力が働いて。
生きがいや存在意義を強く求めているうちは、天の力が入り込む余地がないのかもしれない。
神谷美恵子もそのことを感じていたそうだ。
「生きがい」は、社会や人が作り出すものであるよりも、もっと深い意味で「自然」が与えてくれるものだと。
そしてそれは、苦しみや悲しみの経験のなかで芽吹き、花開かせるという。
自分の力ではどうにもできなくなったとき、天の力が動き出はじめるのだ。
(180621 第442回)