期待は他人の行為を束縛する魔術的な力をもっている
前にも紹介したことがある、哲学者の三木清の言葉だ。日本における書籍の形態の一つ、「文庫本」というスタイルを発案し、岩波文庫の巻末にある「読書に寄す」の文章を手がけたのも三木だということを、以前NHKで放送されていた「100分de名著」で知った。
相手へのエールから「期待しています」という言葉を使うことがある。
メールや手紙の文末にも結びの言葉として書きそえることも。
普段、何気なく使っている「期待」という言葉は、他人や自分以外の何かに向けられていることが多い。
人が社会で上手く生きていこうとすれば、それなりに期待に応えようと思うのが人の心。
だけど、期待に応えるばかりでいいのだろうか。
子供は親の期待に応えようと、小さいながら健気にがんばっている。
生きていくためには、命を守ってもらう必要があるからだ。
「期待に応える」ことが生き抜く手段だと言わんばかりに。
そうやって、多くの人は大きくなった。
そして、体の成長とともに「期待」も「結果」を食べてどんどん大きくなってゆく。
「我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。・・・時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い」
人の期待は他人がつくったもの。
既製品よりも手作りのものに温もりが感じられるように、たとえ人に受け入れられなくても、自分が好きで作ったものなら愛着もわく。
期待に応えるばかりではなく、オリジナルの世界を作ってみよう。
(180714 第449回)