型を真似るだけだけなら誰でもできます。型に心血を注いで初めて形になるんです
茶の湯の大家、千玄室大宗匠の至言である。『Japanist』創刊号で、コーディネーターを務める中田宏氏との対談での一コマ。大宗匠は茶の精神や利休の唱えた「和敬清寂」について語られた。出てくる言葉はどれも至言だらけ。その中の一言である。
型に入りて型を出る。
道と名のつくものの本道である。
茶道、華道、剣道、柔道、空手道、居合道、弓道など、それ以外にも道はいくつもあるだろう。
極める極めないにかかわらず、これと信じたものがあるなら、それはいつか道になる。
道のはじまりは、まだぼんやりとした朧でも、道を歩いていくうちに、しだいに姿形になってゆく。
ただ歩くだけでは、ぼやぼやとまとまりのない、どろりとした葛湯のようになってしまう。
葛湯もいいが、葛餅であればなお美味しい。
葛餅でもわらび餅でも、つるりとした喉越しと、もっちりとした食感はほしいものだ。
だから型に入れる。
型に入れ、形になればつるんと出す。
葛餅という個のできあがりである。
個性が大事といって、型にはめたり、型におさまることをよしとしない風潮があるが、それでは却って個になりづらい。
もちろん、すべてがそうだとは思わない。
しかし、個となり性となるには一度型に入ったほうが個性は発現しやすいだろう。
「型というのは言うなればパターンです。真似さえすれば、誰にでもできること。ただそれだけでは自分のものにはなりません。基本を繰り返し繰り返しすることによって『カタ(型)』に心血を注いでいく。そこで初めて『カタチ(形)』になってくるのです」
パターンとしての「カタ」では人の心は動かせない。
型に自分の「血(チ)」を入れることによって、型と自分が一体になるのだと、大宗匠は言葉を継ぐ。
ぼやぼやと朧だった魂が、肉体という型に入れられこの世に生まれ落ちたのも、道から道へ歩み出てゆくためだったのか。
なんだかわかるようなわからないような。
何はともあれ、ぼやぼやしないで、とりあえず型に入ってみよう。
(180911 第468回)