禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたが、それは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった
結核に倒れ、34歳の若さでこの世を去った正岡子規。病床に伏し、寝たきりの状態であってもなお麻酔で痛みを散らしながら精力的に創作に励んでいたという。子規は、死を前にして禅の真髄を悟ったのだろう。亡くなる前に書き遺した言葉がこれだった。
沢庵和尚の説いた「不動智神妙録」に由来する「剣禅一如(一致)」。
剣の道と禅の教えは、生と死のぎりぎりのところを見据えて修行に励むという意味で一致すると、宮本武蔵や山岡鉄舟などの剣豪が「剣禅一如」の精神で修行に励んだことはよく知られている。
だからだろうか、いつでも死ねるという覚悟、生よりも死を選択することこそ禅だと勘違いする人もいる。
だけど、それはどうだろう。
お釈迦さまは苦しい修行の末、どんなに体を痛めつけても悟りは開けないことを悟ったのではないか。
四苦八苦の世の中にあって、どうやって生きるかを見つめ直したのではなかったか。
いかに今生を生きるかを、その身をもって教えたのではなかったか。
自我を滅し、無の境地に至った無私の心で相手に対する。
武士道精神と禅の一致はそれではないか。
子規が病床で苦しみながら綴った禅の悟りは、
「生きれるものなら生きたい。願わくば生き続けたい」
という、切なる思いの表れだったのかもしれない。
死にゆく人を思えば、限りある生を謳歌しなければバチが当たる。
(181027 第483回)