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紺碧の将

仏も昔は人なりき われも終(つい)には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ

『梁塵秘抄』より

 後白河法皇が撰歌し、編纂した今様集『梁塵秘抄』から抜粋した。中でも有名な歌だから知っている人も多いはず。今様とは、たとえて言うなら流行歌やポップスのようなもの。遊女たちが口づさむ今様に虜になった後白河法皇の、おそらく趣味の集積ではあるが、遊女の歌ゆえ多様な世界が広がっていておもしろい。

 

「仏も昔は人間だった」

 で、始まるこの歌。

 誰もが最後は仏になる身であり、仏となれる性質を本来持っているにもかかわらず、仏道を蔑ろにしているのは何とも悲しいことだ、と締めくくる。

 

 仏道とは、この場合「仏の心」だと解釈したい。

 

 ブッダもキリストももともと人間だったのだ。

 彼らが神や仏と崇められるようになったのは、ありえない出生や神秘的な能力だけによるものではないはず。

 特にブッダは、人間の欲も煩悩も味わったあとの出家である。

 苦行を積み重ねてもなお、己の未熟さが露見することもあっただろうし、それを腹立たしく思ったこともあったはずだ。

 

「心は蛇蝎(だかつ)のごとくなり」

 と言ったのは、浄土真宗の開祖、親鸞上人。

 親鸞もまた、どれだけ修行を積んでも心の奥底にはヘビやサソリのごとき未熟さを抱えて生きるのが人間の姿だと認めている。

 

 未熟さを抱えながら生きるのが人間ならば、本来持っている仏性をいかに発露させてゆくのかを学ぶのが人間磨きであり、人間的成長のための第一義ではないか。

 

 この世に生まれたのは、きっと未熟だからなんだろう。

 未熟さを認めれば、美醜、善悪に囚われることなく、どんなものからも学べるはずだ。

 

「美しい日本のことば」連載中

(181030 第484回)

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