芸術に完成はあり得ない
日本画家、奥村土牛の言葉を紹介しよう。人柄を思わせるような朴訥でやわらかい筆致が特徴の土牛。鳴門の渦潮や那智の滝など、荒々しい自然に対しても、動植物などの生きとし生けるものに対しても、一様にしてそのまなざしは真剣で愛情深い。描く対象にまっすぐ向き合い、そのものの気持ちを捉えることに心血を注いでいたからだろう。まさに魂を描く画家である。
「芸術に完成はあり得ない。どこまで大きく未完成で終わるかだ」
土牛は、未完成で終わることを願った。
理由は明白である。
つねに自己の成長を求めていたからだ。
「一本の線をひくにも、そのものの真髄を掴むような線を引きたいと思う」
「自分を知って素直に精進していくより私に道はない」
「できるだけ淡々とがんばるだけ」
「死ぬまで初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい」
生前、自分で描いた作品で一番好きな絵は一枚もなかったという土牛。
現状に満足することはなく、最期までいい絵を描こうと努力しつづけた。
言うまでもなく、完成は終わりである。
未完成だからこそ、成長しつづけることができる。
完成したものは、それ以上なにをする必要もなく、入り込む余地がない。
しかし、未完成はちがう。
物足りなさや危うさはあるものの、どこかほっとするような、人の心をなごませる余裕がある。
子供のような邪気のない無邪気さこそ、未完成の真髄ではないか。
機械製品よりも手作りのものに温もりがあるように、寸分のくるいもない完璧なものより、多少のゆがみや欠けたところ、足りないところに本来の魅力は隠れている。
「余白」や「間」に美を感じるのは、そういうことだろう。
芸術に完成がないように、人間にも完成形はない。
不完全だからこそ、有限なる可能性を秘めているのではないか。
未完成が人を謙虚にさせ、学びつづける原動力になる。
謙虚に学びつづける姿に、人は魅了されるのだ。
(190306 第519回)