平凡なことは非凡なことよりも価値がある
ブラウン神父の推理短編シリーズで知られる、G・K・チェスタトンの言葉である。著書『正統とは何か』の中に出てくる。カトリックに改宗してからのチェスタトンは、世の中に流布する大衆的思想への警句や逆説を唱えた。この言葉もそのひとつ。
この言葉には続きがある。
「平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりも、よほど非凡なのである」
人は平凡なことを嫌う傾向がある。
平凡で、凡庸であることは恥ずかしいことのように、人とは違うこと、すごいことをやろうとする。
とくに若いうちは、平凡に見えることはやりたがらず、変わったことをやりたがる。
人よりも優れているという過信がそうさせるのだろうか。
ある一人の平凡な主婦の話をしよう。
彼女は、結婚して50年来、早朝の玄関掃除とトイレ掃除、家の内と外の掃除、夫の弁当作り、そして神仏への供物と祈りを一日足りとも欠かしたことがない。
外出するときは、それら一通りを終わらせるために1時間でも2時間でも、必要とあらばいくらでも早起きする。
もともと4、5時間ほどしか睡眠時間はないというのに。
「しないと気持ちが悪い」らしい。
未だ、毎日おなじことを繰り返している。
彼女は、怪我と貧しさゆえに小学校もろくろく行っておらず、学校教育はおろか、教養もほとんどない。
周りからは「バカ」だの「アホ」だのと言われ、蔑まれてきた。
だからこそ、自分ができること、与えられた役割を、日々怠ることなくひたすら続けている。
50年間、掃き清められ、磨き上げられた彼女の住まいは、内も外も神社仏閣のように美しい。
平凡で、知識も教養もない自分を慰め、祈るように続けてきた彼女の非凡さの表れである。
凡庸であることは、これほど神々しく価値あるものかと思い知らされる。
法隆寺、最後の宮大工棟梁である西岡常一の唯一の弟子である小川三夫氏は、弟子たちに、ひたすら道具の研ぎをさせる。
一年間、研ぎしかさせない。
自分も同じように、寝る間を惜しんで道具を研いだという。
ひたすら研いだ道具と、その精神によって、由緒ある寺社仏閣は守られている。
偉人や賢人と言われる人たちの多くは、人がやりたがらないような、平凡に見えるようなことをコツコツと続けていたにすぎない。
大衆は目に見える非凡さに光を見るが、偉人や賢人たちは、目立たない平凡さの中にこそ、光り輝く宝物があることを見極めている。
(190310 第520回)