何の天分もない人間は、ただのひとりもこの世におらん
宮本輝が36年の歳月を経て描き続けた『流転の海』シリーズ、第一部からの抜粋である。激烈な存在感で読者の心をわしづかみにする主人公、松坂熊吾のセリフだ。熊吾は著者自身の父親がモデルだという。理不尽極まりない、わがままで女好きの熊吾。戦後の日本には、こんな男たちがたくさんいたんだろうな、とつくづく思う。
人生の早い段階で、進むべき道が定まっている人は運がいい。
道草しても寄り道しても、迷わず前へ進むことができるから。
けれど、多くの人は、まず道の選択に迷う。
自分はどの道をいくのか。
何をたよりに歩いていくのか、と。
「天分」と聞くと、ものすごく大きな、特別な才能だと勘違いする人は多い。
秀でた特技や技術があったり、頭脳明晰であったりと、誰がみてもそれとわかるものが天分だろうと。
垣根涼介の小説『信長の原理』の中に、こういうセリフがあった。
「人間といえども、しょせんは流転する万物のひとつ。その一点においては、牛馬や蟻と変わりませぬ。あまたを照らす彼らも、それほど暇ではありますまい」
この世に神や仏はいるかと信長に尋ねられたときの、松永弾正の言葉である。
いたとしても、人間のことに、ことさら興味も持ってはいないだろうと。
万物の創造主は、人間だけに光を注いでいるわけではない。
生きとし生けるものすべてに、まんべんなく燦々と光を降り注いでいる。
だからこそ、影も日向もできる。
そして時が過ぎれば、影が日向に、日向が影に変わってゆく。
ビジネス界でバリバリと仕事をこなす人もいれば、料理人として腕を振るう人もいる。
話し上手な人、聞き上手な人、先頭に立つ人や、背中を押していく人。
世の中は、さまざまな人がいて成り立っている。
ぶつかり合い、助け合い、パズルのピースを合わせるがごとく、互いの凹凸を埋め合わせながら、ひとつの世界を作っている。
相手の欠けたところ、足りない所を、自分ができることで補っていきながら。
天から授かった生命は、どの生命もかけがえのないもの。
その生命の時間を大切に、精一杯、生ききること。
特別なことでなくても、一生懸命、もてる力を存分に発揮すれば、一隅を照らすことはできる。
(190327 第525回)