人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない
何度か取りあげたことがある。神谷美恵子の言葉をふたたび紹介しよう。著書『生きがいについて』からの抜粋である。つねに苦しむひとや悲しむひとに寄り添おとした神谷美恵子。彼女が残した手記は、人間への愛にあふれている。
生きがいとはなにか。
生きる甲斐あるもの。
それはひとえにこれと言えるものではない。
そしてまた、探して見つかるものでもないだろう。
「いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。
ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見だすのだろうか」
生きる意味を問いつづけた、神谷美恵子の長年の思いである。
それが氷解したのは、らい病患者との出会いであった。
「毎日、時をむだにしている」
「無意味な生活を有意義に暮らそうと、むだな努力をしている」
「たいくつだ」
らい病患者の大半がそう感じていたという。
それでも、生きることに喜びを見だしていた患者もいたようだ。
「ここの生活……かえって生きる味に尊厳さがあり、人間の本質に近づき得る。
将来……人を愛し、己が生命を大切に、ますますなりたい。これは人間の望みだ、目的だ、と思う」
重症だったこの患者は、この言葉を記した数年後に亡くなったという。
現代人の虚無感は、多くのらい病患者と同じだろう。
神谷美恵子が言うように、わざわざ研究などしなくても、人間がいきいきと生きていくために、生きがいほど必要なものはない。
その「生きがい」を見失っている人がどれほど多いことか。
しかし、生きがいは、求めて得られるものではなく、与えられるものだとも彼女は言う。
「このために」というものとの出会いは、心が通いあったときに生まれるのかもしれない。
この子のために、この人のためにと、自分の存在なくして守ることはできないと思うものができたとき、人は生きがいを感じることができる。
赤ん坊や動植物が愛に満ち溢れているのは、「守らなければ」という生きがいを与えてくれるからだろう。
便利や効率が重要視される今、心が通い合う、命のぬくもりを感じられる「愛」は置き去りにされてはいないだろうか。
生きとし生けるものを心から愛し、己が生命を大切にできるような「生きがい」は、心なくして生まれない。
(190330 第526回)