自由でいるためには、強くならないこと。風船になりなさい
合気道本部道場指導部師範、渡辺信之氏の言葉である。88歳の今も現役で指導する傍、整骨院を開業する渡辺師範。「その場所に花があったら花にたとえ、榊があれば榊でたとえる」とその精神を説き、合気道は自由になるための手段だと弟子たちに身をもって伝える。達人たるゆえの境地である。
こうでなければ、こうあらねば・・・。
日本人は、とかく形にとらわれる。
不自由に身をおけば、自由を求め、
自由に身をおけば、責任という重圧に押しつぶされそうになる。
誰かや何かの庇護のもとにいれば安心も安全も保証される、という世の中ではないからこそ、先行きへの不安が影となって心身を襲うことになる。
多くは思いわずらいであるというのに。
もともと、うつろいゆくのがこの世界。
安心や安全などないに等しい。
はじめからないと思えば、恐れる必要もない。
ないものはないのだから、それに対処する術を身につければいい。
「空気と遊ぶ。気というのはかたちじゃない。エナジーだよ。合気道というのは、自分のエナジーと相手のエナジー、そして今、この場所のエナジーをもって、空気に絵を描くようなもの」
だから、今この場所で出会ったことを楽しむのだと渡辺師範はいう。
2度と同じ絵は描けないし、毎回やりかたは変わってゆく。
今という瞬間は常に変化しつづけているのに、かたちにとらわれていては、かえって身動きがとれなくなってしまう。
あるがままを受け入れて、自分なりの世界観で空間をつくればいい。
そのなかに遊ぶことを、自由というのだと。
無為自然であるがゆえ、勝ちもせず負けもしない。
勝ち負けを超越した、荘子のような世界こそ、自由の境地。
― 至人の心を用うることは鏡の如し おくらず迎えず、応じてかくさず 故によくものに勝ちてそこなわれず。
(完璧な人の心は鏡のようなもの。来るものは拒まず、去る者は追わず。すべてに対応しながら、その跡をとどめない。だからどんなものにも対処して傷つくことはない)
流れにさからい、勝とうとすることが、いかに無意味なことか。
風船のように、ふわっと軽やかにその場に身をゆだねれば、何も恐れることはない。
(190425 第533回)