葉一つに心をとられ候わば、残りの葉は見えず、一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候
宮本武蔵の師として知られる沢庵和尚こと沢庵宗彭の言葉である。臨済宗の僧侶であった沢庵和尚は、柳生宗矩の求めに応じて剣禅一如の境地を説いたという。その極意を記した『不動智神妙録』の一文である。
周りを敵に囲まれたとき、一人の動きにとらわれていては、命の保証はない。
武士の世とは、そういうものだった。
全体に意識が向いていなければ背後から一刀両断ということも、
肩や腕に力が入れば無駄な動きをして自滅する、ということも多分にあったはずだ。
体全体に気を行きわたらせる。
剣の極意とは、おそらくそういうものではなかったろうか。
――何処なりとも一所に心を置けば、余の方の用は皆欠くなり。
――何処にも置かねば我が身いっぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりて……その入る所々の用を叶うなり。
“木を見て森を見ずではいけないよ”と、言っているのだろう。
経験を重ね、歳を経るごとに、なんとなく物事の全体像がつかめるということがある。
若い頃にはわからなかったことが、後になれば瞬時にわかることもある。
経験に勝るものはないということ。
だとすれば、
“木を見て森を見ず” もまた真なりではないか。
ある一定期間は、一つのことに徹底して取り組むことも必要。
剣豪たちが全体に気を充満させることができたのも、剣の道を極めるための日々の研鑽あってこそ。
まずは、一つのものにとことん取り組むこと。
日本画家の小倉遊亀が師である安田靫彦から「宇宙を手に入れるために一枚の葉っぱを手に入れろ」と言われたように、一つのことを深く掘り下げていけば、自ずと全体像が浮かび上がってくる。
――たとえば一の木に向こうて、そのうちの赤き一つを見て居れば、残りの葉は見えぬなり。葉一つに目をかけずして、一本の木に何心もなく打ちむかい候えば、数多の葉残らず目に見え候。
葉一つに心を取られ候わば、葉は見えず、一つに心をと止めねば、百千の葉みな見え申し候。これを得心したる人は、すなわち千手千眼の観音にて候
一部は全体で、全体は一部。
もしかすると、沢庵和尚も、このことを言いたかったのではないだろうか……。
(190720 第559回)