一という字のように重たい、無という字のように軽い一生
「やぎさんゆうびん」「ぞうさん」「一年生になったら」などで知られる、詩人まどみちおの言葉を紹介。104歳で亡くなるまで創作活動に励み続け、数多くの作品を残した「まどさん」。その多くは子供のまなざし。子供たちが、まどさんの口を借りて語っているように思えてならない。著書『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』からの抜粋。
「一」 は重く、「無」は軽い。
なるほど、そのとおり。
手カゴに入れた一個のりんごも、食べてしまえば軽くなる。
それが「一生」なのだと、まどさんは言う。
はたしてどういうことか?
岡潔の『春宵十話』の「はしがき」に、こんなことが書いてあった。
「私は、人には表現方法が一つあればよいと思っている。
……私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た」
これを読んで、まどさんの言う「一」と「無」の関係がおぼろげに浮かび上がった。
スミレはスミレとして、ただ自らの命を生きているのであって、春の野原に「どうしてやろう」「こうしてやろう」などとは思っていない。
ましてや、他の花にどう思われているかとか、桜やバラになりたいなどとは思っていないだろう。
一個の命の重み。
無に帰する命の儚さ。
一は無であり、無は一であるということ。
スミレはスミレとして一生を生き、土に還った。
りんごはりんごとして一生を生き、食べられた。
どちらの一生も、本人のあずかり知らないところで、役目を果たした。
ふたつとない、一己の命を生き抜いて。
(190912 第574回)