浜までは海女も蓑きる時雨かな
江戸中期の風変わりな俳人、滝野瓢水の句である。俳諧にのめり込み、放蕩の末、受け継いだ稼業を没落させた瓢水。晩年、仏門に入り俳句三昧に暮らしていたところに彼を慕って訪れた禅僧にしたためた句だ。執着のない瓢水が風邪を引いて薬を買いに走ったのを見て「娑婆への未練」と呆れて帰るところだった禅僧は、この句を読んで思いとどまったという。
ガス・ヴァン・サント監督の映画『永遠の僕たち』の中で、印象的なシーンがあった。
余命3ヶ月の少女が、恋人に大好きな鳥の生態を語るシーンだ。
「鳥は、朝目覚めると生きていることが嬉しくて鳴くのよ」
たぶん、そんな言葉だったと思う。
鳥は眠りに着く時、明日も生きているとは思っていない。
その日がすべてで、眠る時は命が尽きる時だと思っている。
だから、朝、目覚めて生きているとわかった時、鳥は歓喜の歌を歌うのだと。
人は、明日があることを信じている。
今日と同じか、あるいは、新しい明日が来ることを信じているから、今を生きることができる。
未来への夢や希望は、人間だけに与えられた幸福だろう。
明日のために、未来のためにと思うことは間違いではない。
けれど、そのために「今」を犠牲にするのは間違っている。
未来のため、将来のためと思うなら、
「今」がどんな状況であろうと、工夫を凝らし、自分を喜びや楽しみで満たしてあげよう。
もしも今が辛く苦しく、忍耐が必要な時であっても、
それは思い描く未来の自分からの通行手形だと思えばいい。
「そこを通過して、ここまで来い」と未来の自分が言っているのだ。
「今」という時間を苦境にするのも楽境にするのも自分自身。
自分で自分の人生を見限るのは、あまりに自分に対して失礼ではないか。
瓢水が句に詠んだように、
どうせ濡れるとわかっている海女でさえも、浜までは蓑を被っていく。
最後の最後まで人生を諦めず、自分の人生を熱愛しよう。
鳥たちのように、生きている喜びを味わって。
(190925 第578回)