宿の春 何もなきこそ 何もあれ
「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句で知られる江戸中期の俳人、山口素堂の句である。学問に長け、俳諧や茶、能、歌などの芸能にも優れた素堂は芭蕉とも親交が深く、その人格も高邁であったという。詠んだ季節は当然、春だろうが、なぜかその先に連なる収穫の秋を感じさせる。
ぎゅう詰めになったクローゼットに、新しい服は収まらないし、たくさん洋服を持っていたところで、着たい服が見つからないようでは、何も持っていないのと同じだろう。
たくさん本を持っていても、読みたい本がなかったり、同じようなハウツー本で本棚が占領されていては、身の置き所もなくなるばかりだ。
部屋は狭くなるし、方法論に埋もれて「自分」という存在が消えてしまう。
もうお腹いっぱい、というときには何を食べても美味しくないが、
空腹も極限に達すれば、一杯の粥も最高級のごちそうになる。
人間の感覚は、満たされすぎていると鈍くなるもの。
カラカラに乾いたスポンジが、一気に水を吸い上げるように、
人間の身体も、空っぽになるほど五感は研ぎ澄まされる。
物がじゅうぶんでなかった時代は暮らしに知恵を絞った。
幼い子供たちは、未熟な脳をフル回転させて無邪気に遊ぶ。
どちらも想像力という強い味方をつけて。
ないからこそ、生まれるものがある。
天下の萬物有より生じ、有は無より生ず。
物も情報も溢れかえる世の中から、これというものを見つけ出すのはむずかしい。
であれば、自分の中から探せばいい。
身も心も空っぽになって内なる声に耳をすませば、本当に必要なものを教えてくれる。
(190929 第579回)