気づかいも、一定の限度を超えれば、所有欲のカムフラージュになる
三大幸福論と言えば、アランの「幸福論」、ヒルティの「幸福論」、そしてラッセルの「幸福論」。中でも精神性より現実性を重視したのがラッセルである。哲学者としてノーベル賞も受賞した彼の幸福論は、客観的に生きることが幸福につながるというもの。客観的視点はものの見方を変え、思考を変え、結果的に自分の手で幸福な状況を作り出せるという。
気遣いは、さりげないのがちょうどいい。
さりげない気遣いは相手を思う気持ちがあるからであり、された方も嬉しいはずだ。
しかし、いきすぎた気遣いは相手の負担になることも。
良かれと思ってやったことが、結果的に相手の不満を募らせてしまったり…。
たとえば友情。
たとえば愛情。
どちらの場合も「あなたのため」は「自分のため」になっていることが多く、無意識下で相手の行動を縛りつけて自分の思うようにしたいという欲望が潜んでいる。
その最も危険な例として、ラッセルは親子の関係を取り上げる。
我が子への行きすぎた愛情は、子を支配しようとする欲望の裏返しなのだと。
可愛さのあまり世話を焼きすぎると、子供は自分の力で立つことができなくなる。
子が求める前に与えたり、歩く道を先回りして整えるのは、動物の本能である危険を察知する能力や生き延びようとする生命力を衰えさせる。
それは同時に、自分の生命力をも減退させることに。
気はエネルギーであり、生命の源。
気を使うとは、エネルギーを使うことであり、生命を削っているということでもあるのだ。
気を使いすぎれば、相手にも気を使わせ、互いの気を消耗させるばかり。
「あなたのために我慢した」という自己犠牲は、我が子はもちろん、恋人や友人知人にとって気を消耗するだけで甚だ迷惑にすぎない。
誰も、そうしてくれと頼んではいないのだから。
自分には自分の人生があるように、相手にも相手の人生がある。
相手を尊重すればこそ、必要以上の気遣いは無用。
相手のためにも、自分のためにも、無用な気は使いすぎないようにしよう。
(191006 第581回)