愛は理くつでなく存在である
女性史研究家であり詩人、評論家の高群逸枝の言葉を紹介しよう。一生のほとんどを女性史の研究に費やした高群女史。残された著書も膨大で、彼女の死後、夫の橋本憲三の手によって全集にまとめられた。ふたりが飼っていた鶏のことを綴った「愛鶏日記」にこの言葉はある。
いつもそばにいた存在をなくしたとき、
人は、はじめてその存在の大きさを知る。
可愛がっていた人や動物。
大切にしていたモノ。
手をかければかけるほど、情は深まり、
情が深まれば深まるほど、離れがたくなってゆく。
そこにいるだけでいい。
何ができなくても、ただいてくれるだけでいい。
その存在が、ただただ愛おしい。
何かができるとか、
何かを持っているとか、
何かを与えてくれるとか、
何かがあるから愛おしいのではない。
何がなくても、存在すること、命そのものが愛おしいのだ。
しかし、世の中の多くは、見返りを求めるフェイクな愛に溢れてはいないか。
評価し、されることが当たり前になり、
何かができなければ、何かをもっていなければ、何かを与えなければ、愛される価値もなく、認められることもないのだと。
現代社会の閉塞感は、それが原因ではないかと思う。
結果、命が粗末に扱われるのは、あまりに悲しすぎる。
人知れず咲く花を見て、勇気が出ることがある。
無邪気な子供の姿に、元気になることがある。
その存在が、だれかの生きる力になっていたり、夢や希望になっていることは十分にある。
「愛は理くつでなく存在である」
存在そのものが愛のかたまり。
あなたもわたしも、木も草も、犬も猫も、鳥も虫も、人の手によって生まれたモノも。
どれもこれも、だれかの愛おしい存在なのだ。
(191217 第601回)