知っていることを伸ばしていけば、知らないところへ出る。知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る
詩人、小池昌代の言葉を紹介。エッセイ集『黒雲の下で卵をあたためる』から抜粋した。数年前のとある雑誌に彼女がコラムを書いていたのを最近初めて読んで、好みの文章だったので詩集とエッセイ集を一冊ずつ購入した。どちらが好きかと問われたら、迷うことなく「エッセイ」と答える。「道について」と題したエッセイの中に、この言葉があった。
小池昌代が言及した「道」とは、老子の言うところの「タオ(道)」ではない。
正真正銘の道路。
「地上にある、土地の裂け目としての一本の道」である。
「知っている道にでるとほっとしますね」
この言葉ではじまるエッセイは、たしかに道路としての「道について」の語りだった。
知らない街に迷い込んだときの道はよそよそしく、人を不安にさせる。
迷いに迷い、ようやく見知った場所に出てくると、ほっと胸をなでおろす。
知らない街も、2度目からは知っている街になるし、
迷った道は、どこでどうつながっているかも、なんとなくわかる。
そのうち、「近道」や「遠回り」ということもわかり、
当たり前に歩いていた道が遠回りだったり、
思い切って踏み込んだ小道が思いがけないところに抜けていたりする。
「知らない道が見知らぬ場所へひとを誘うのは当たり前だが、知ってる道が見知らぬ場所にひとを運んだり、知らない場所がよく知っている道に通じていることを知ることには、いつもささやかな感動がある」
彼女は「路」を語りながらも「道」を語る。
「道には知っていることと知らないことを結びつける機能が備わっているようだ。知っていることを伸ばしていけば、知らないところへ出る。知らないものを伸ばしていくと、知っている道に出る」
何かに懸命に取り組んでいると、
知れば知るほど知らないことが増えることも、
知らないことが知っていることにたどり着くこともよくわかる。
「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」と、高村光太郎は言った。
近道であっても遠回りであっても、いつかは居るべき場所に落ち着くのだろう。
恐れなくていい。
人が歩む道は未知であり、未知だからこそ道になるのだから。
(191230 第605回)