自分というのは「自(然)」+「分(身)」、すなわち自然の分身、自然の一部と解釈しても間違いはなさそうです
物理学者の佐治晴夫氏の言葉を紹介しよう。佐治氏は、太陽系・外惑星探査機のボイジャー号にバッハの平均律クラヴィーア搭載を提案した人物。幼い頃に聴いて感動したパイプオルガンでのバッハの曲がずっと忘れられなかったそうだ。現在は宇宙研究の成果を平和教育へのリベラルアーツと位置付け、全国の学校へ授業行脚を行い、「生命の不思議」や「生きること」への希望を語っているという。著書『宇宙のカケラ 物理学者、般若心境を語る』から抜粋した。
冷蔵庫のなかで、残り物のキャベツや白菜が中心部から育っているのを見ると、
「そんなにまでして生きたいんだね」と、しみじみ思う。
彼らの「いのち」をいただいていることのありがたさを実感する瞬間である。
そしてまた、
「いのち」はそうやすやすと人の手で終わらせることはできないのだと思う瞬間でもある。
人間もやっぱり、同じはたらきがある。
手を切っても、傷は自然にふさがるし、
風邪をひいても、やがて治る。
髪はのびるし、爪ものびる。
たとえ、「死にたい」と思っても。
意思とは反対に、体は生きようとするのである。
自然のはたらきに身を任せれば、体は生きるためのはたらきをする。
そのはたらきの役割が終わるまで。
意思とは関係なく。
意思が「私」なら、自然のはたらきは「いのち」のはたらき。
佐治氏の解釈を当てはめると、
自然の分身である自分は「私」ではなく、「いのち」そのもの。
そうやすやすと「いのち(自分)」のともしびは消えはしない。
なにがあっても働こうとする「いのち」のように、「私」もただただ働きに身を投ずれば、
やがて「私」が消え、いのちあるすべてのものと、ぴったり呼吸が合うはずだ。
自然のはたらきは、「自分」に優しく「私」に厳しい。
キャベツはキャベツであるように、白菜は白菜であるように、
人も人として、「自分は自分」としっかり生きていれば、
自然は優しく、「いのち」のはたらきに力を貸してくれるだろう。
きちんと役割を終えるまで。
(200129 第613回)