仏は是れ自心のなるもの。なんじに報ず、能く信受して、外頭にそうてゆく勿れ
俗世間から離れ、幼子と戯れながらも歌を詠み、漢詩をつくり、書に親しんだ良寛さん。そのどれをとっても、なにひとつ取り繕ったところが見当たらない。だからか、すーっと人の心に染みわたる。この言葉もそうだ。詩人の長田弘さんが生前、著書『なつかしい時間』で「受信力の回復を」と題して取り上げていた。
垣根のない開けっぴろげの世の中になって、情報は出入り自由になった。
真も偽も清も濁も、ごちゃまぜになって。
ゆえに、
真を偽と信じ、偽を真と信じることも、
清を濁と思い込み、濁を清と思い込むこともある。
一瞬にして真が偽に変わり、偽が真に変わることがあり、
清も濁も同様である。
そうなると、
何を信じればいいのか、
何を疑わなければいけないのか、判断に迷う。
「発信することの大事さが強調されればされるほど、逆に、いつかすっかり衰えてきているように思うのが、『受信する』ちからです」
と、長田さんは遺言のように現代人へ警鐘を鳴らしていた。
「受信するちから」とは、
他者の発しているシグナルや他者の求めているコミュニケーション、他者の言葉、他者の沈黙など、
「他者の存在を自分から受けとめることのできる確かな受信力」
だと、長田さんは定義する。
そうした受信力の欠如が、社会のあり方を歪ませるまでになってはいないか。
受信するちからを、自分のうちに、生き生きとたもつことができるように、もっと苦心しなければいけない。
そうでないと、大切なものを自分に受けとめて、自ら愉しむことができなくなってしまう、と彼は危惧する。
そこで手本となるのが、良寛さん。
長田さんいわく、良寛さんが望んだのは、
世にむけて発信する言葉ではなく、自ら生きる方法としての言葉だった。
「仏は是れ自心の作(な)るもの。道もまた有為に非ず。爾に報ず 能く信受して、外頭に傍うて之くなかれ」
(仏はこの自らの心がなるものだ。道も作為とは関わりのないものだ。君たちにもの申す、このことをしかと受けとめて、外がわのものにくっついて行くではない:訳・入谷義高)
求道、外にあらず心中にあり。
情報を求める前に、まずは内なる声に耳をすましてみよう。
今回は、「零れ桜」を紹介。
はらはらと舞い散る桜。零れ桜(こぼれざくら)です。日本人にとって、桜はもののあわれを誘う花。続きは……。
(200423 第634回)