天命に従いてつぶさに人事を尽くす。
道徳教育に尽力した法学者、廣池千九郎の言葉を紹介しよう。廣池は故郷大分県中津市の郷土史『中津歴史書』の著者としても知られる歴史学者でもある。教師を務めながら5年の歳月をかけて書き上げた本書により歴史家として立った廣池は、その後、早稲田大学講師や伊勢の神宮皇學館教授などを歴任し、「東洋法制史」という新学問分野を開拓して、47歳で法学博士となった。
広く世界を見わたすと、あまねくゆきわたる真理にぶつかる。
大自然から人類社会にいたるまで、この真理によって動いていることに気づく。
国も、州都も、企業、家族、個人と単位を小さくしても、
その事実は変わらない。
それは、
天の命によって事が運ぶ。
大自然が天の命によって移り変わってゆくように、
人類社会も天のさだめによりて運ばれてゆく。
やるだけをやったら、あとは天にまかせるという「人事を尽くして天命を待つ」。
尽くす人事が、天の意に反するものならどうだろう。
たとえば、
自分だけがよければいいという人事。
自分本位の人事。
自分をおとし入れ、他も道連れにするという人事。
これらの利己的な人事に、はたして天は味方するだろうか。
南洲翁、西郷隆盛なら言うだろう。
「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的す。
天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり」と。
国家も企業も個人に至るまで、うまく事が運んでいるものはすべて、
天のように動いてはいないか。
大自然のような働きをしてはいないか。
自分を生かし、他も生かす働きを。
人事を尽くして天命を待つというなら、
まずは廣池千九郎が言うように、
天命に従いてつぶさに人事を尽くしてみる。
天ならどう思うか
天ならどうするか。
迷ったり悩んだりしたときは、
天の視点で考えてみよう。
今回は、「零れ桜」を紹介。
はらはらと舞い散る桜。零れ桜(こぼれざくら)です。日本人にとって、桜はもののあわれを誘う花。続きは……。
(200501 第636回)