積善の家には、必ず餘慶あり。積不善の家には、必ず餘殃あり。
儒教、四書五経の筆頭にあげられる経典『易経』の言葉を紹介。もともと占いのテキストである『易経』は、中国伝説の帝王、伏犠の作と伝わっている。今でこそ占いは信憑性の厚薄によって娯楽化しているものも多いが、古代において『易経』の存在は国をも揺るがす重要なものだった。単なる占いと侮るなかれ。易の提示は宇宙の法則を指し示す。
いい行いを積み重ねた家は、必ず子孫までその報いがある。
反対に、よくない行いを重ねると、それもそのまま災いとして子孫まで及ぶ。
言われてみれば、当然のこと。
いまここにいるのは、父と母がいたからで、父と母もまた、それぞれの父と母がいたからだ。
長所も短所も、父と母から半分ずつ、できることもできないことも、父と母から半分ずつ。
突然変異のような才能も、父と母が受け継いでいた才能が眠っていただけかもしれないし、ずっと昔のご先祖さまに、同じような才能をもった人がいたのかもしれない。
連綿と受けつがれてきた血脈のなかには、それぞれの時代を生きぬいてきた生き様も流れている。
何を食べ、何を思い、どんな仕事に就き、どんな生活をしていたのか。
だれと、どんな風に関わったのか。
いまを生きるわれわれと同じように、彼らも悩んだり苦しんだり、喜んだり楽しんだりしていただろう。
それを血が覚えている。
血が記憶しているのだ。
嫌なところほどよく似ると言うが、それはもしかすると、
それを克服せよと教えてくれているのかもしれなし、
良いところや長所と言われているところは、
磨けば磨くほど宝玉になることを報せてくれているのかもしれない。
遺伝子学者の村上和雄さんの祖母の口癖は、
「天に貯金をする」
だったそうだ。
人を喜ばせて天に貯金をしておくと、後々利息がついて返ってくるという。
もちろん、すぐにとは限らない。
何年、何十年、ともすると何百年後かもしれない。
そんないつとも知れないことに、と思うだろうか。
が、今の自分を振り返ってほしい。
今ある恩恵は本当に自分だけの力だろうか。
もって生まれた才能は、はたしてどこから来たのだろう。
今は不幸な中にいるのだとしたら、その事実は何を伝えているのか。
たとえば親族家族に同じ連鎖の跡が見えるなら、それは天に貯金したものが何かという証。
連鎖がいいものであればいいが、そうでない連鎖は断ち切るに限る。
なぜならそれは、いずれ巡り巡っていつか自分に返ってくるのだから。
積善の家には、必ず餘慶(よけい)あり。積不善の家には、必ず餘殃(よおう)あり。
易のことばを信じるか信じないかは、あなたしだい。
今回は、「藤浪」を紹介。
小さな紫の花房が風にたなびいている姿が波を思わせたのでしょう。続きは……。
(200510 第638回)