常識というものは世間一般に信じられているほどの根拠をもたない。
天才物理学者、アルベルト・アインシュタインの「常識」に対する考えである。正しくは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」と言ったそうだが、それも果たして真実かどうか…。ただ、アインシュタインにとっての「常識」は世間にとっての「非常識」であったことは確かだろう。
歴史を振り返ってみると、「一般常識」ほど人を惑わすものはない。
惑わされるだけならまだいい。
ともすれば命さへ落としかねない。
ことほどさように常識とは諸刃の剣だと心しておこう。
今はもう歴史の1ページとなった先の戦争でも、戦前戦後の常識のちがいに生きる希望を絶たれ命を落とした人も多かったという。
さらに遡れば、歴史の変転と常識の変転は常にイコールということもわかる。
ある作家が病の身を圧して連載の原稿に勤しんでいたときのことだ。
緊急入院した病院で通常の倍の痛み止めを投与され、その日、彼の意識はもどらず休載が決定。
その後、別の病院に搬送され一命を取りとめ、彼の意思を汲んだ治療により最期まで書き続けることができたというが、
このことからも病院側の「常識」というものがいかに人命とは無関係であるかがわかるだろう。
彼の命は「書くこと」によって永らえたのであって、決して病院の「常識」ではなかったのだから。
人はなぜ生きるのか。
なにによって生かされているのか。
命が求めているのは「常識」ではなく、「情熱」という灯火ではなかったか。
その灯火を燃え上がらせるのは、「希望」という風ではなかったか。
今は火種ていどの小さな灯火だとしても、風が起これば燃え上がる。
これまでも、これからも、常識というのはただの幻。
そんなものに命の灯火を消されてはいけない。
ぷすぷすと燻る火種を守りつづけてほしい。
今回は、「五月雨」を紹介。「さみだれ」です。梅雨の季節に東北を旅していた松尾芭蕉も――五月雨を集めて早し最上川 と詠んでいます。続きは……。
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(200706 第651回)