草の名も所によりて変はるなり 難波の蘆は伊勢の浜荻
南北朝時代、時の関白二条良基らによって編纂された恋歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』の中のひとつ。ことわざとしても使われるくらいだから、今も昔も人の言動というのはたいしてかわらないのだと気づく。正義を振りかざしそうになったときに思い出したい言葉だ。
世の中をみわたすと、以前にも増して民衆の力が激化しているように思う。
マスメディアの蛮行に加え、SNSの普及がそれを後押したと考えるのは愚見だろうか。
一人をターゲットにして攻撃し、人生を狂わせてしまう。
挙げ句の果ては死へ追いやってしまう、という風に。
あきらかに攻撃とわかる攻撃なら、まだ打つ手はある。
だが、一見「良いこと」と思われるものが、かえって大きな悪になりうるということもあるのだ。
よかれと思ってしたことが、他人を傷つけてしまうことがあるように。
ではなぜ、そんなことが起こるのか。
スペインの哲学者で思想家のオルテガに言わせれば、人間が「平均化」されていった顛末、
「それは、質を共通にするものであり、社会の無宿者であり、他人から自分を区別するのではなく、共通の型をみずから繰り返す人間」
の増殖が原因ではないかと推察する。
ビッグデータや行き過ぎた専門化が、「平均的人間」を生み出したとも言えるだろう。
つまり、現代のありようは「平均化された人間」による「平均化されない人間」への攻撃が激化しているということ。
まるで体内に侵入した病原体に抵抗する免疫細胞のように、新型ウィルスの一人を攻撃しているのだ。自滅する危険性があるということにも気づかずに。
本来、人間は「平均値」ではおさまらない。
平均的人間なら、ロボットと同じではないか。
人間一人ひとりの顔が違うように、一人ひとりの心模様はまったく同じではない。
そのことを心に留め置くためにも、折に触れて思い出したい。
―― 草の名も所によりて変はるなり 難波の蘆(あし)は伊勢の浜荻
と。
おなじ花も所変われば名前さえ変わる。
それくらい、人というものは不確かなもの。
蘆であろうが浜荻であろうが、そのものには変わりないというのに。
他者を批判する前に、自分はどうかと振り返ることを忘れたくない。
今回は、「虫時雨」。時の雨と書いて「しぐれ」。降ったり止んだり、時のまにまに降る雨のことを言いますが、日本人の耳にはどうやら、しきりに鳴く虫の声も雨の音に聞こえるようです。続きは……。
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(201009 第672回)