自分の内に安らぎを見出せないときは、外にそれを求めても無駄である
ときどき辛口の箴言を求めてこの本を開く。『ラ・ロシュフコー箴言集』である。17世紀に生きたラ・ロシュフコー公爵の、いわゆる人間観察記とも言えるこの箴言集は、「人間は善である」という性善説とは真逆の性悪説を記したものだ。人間、誰しも善の向こうに認めざる悪の顔があるものだと公爵は語る。不思議なもので、公然と人間性悪説を説かれると、恥ずかしさに謙虚な気持ちもわいてくる。
あるとき、それまで見ていた世界と、まるで違って見えることはないだろうか。
たとえば、本棚に眠っているずいぶん前に読んだ本だったり、
たとえば、遠い昔に聴いた大好きな音楽だったり、
かつて馴染んでいたものが、久しぶりの再会ですっかり姿を変えてしまったと思うことがある。
それは経年変化による古びた様相ということだけではなく、互いの距離感というか、長い歳月の隔たりが作り出したよそよそしさというか。
あれほど意気投合していたのに、なんだか以前とはちがう物足りなさを感じるのだ。
あるいは、以前には気づかなかった素晴らしい発見をすることも。
そんなときいつも思う。
「ああ、すべては心の問題なんだ」と。
環境や状況の変化が自分自身の進化・成長につながれば、世界の見え方は必ず変わる。
もちろん停滞や後退によっても変わるだろう。
世界はありありと事実を見せつけるだけで、それをどう受け止めるかは一人ひとりに任されている。
だから、どう受け止めようと自由なわけだ。
安らぎを外に求めても、受け取る側が安らかでないなら、なにをどうやっても安らげるはずはない。
まったく、ロシュフコー公爵の言うとおり。
今回は「身に入む」。秋の季語にある「身に入む」、「入」を「し」と読ませて「身にしむ」です。続きは……。
https://www.umashi-bito.or.jp/column/
(201022 第675回)