言葉は乱用されると、内容を失う
今は亡き、雑誌『室内』の創刊者でありコラムニストの山本夏彦の言葉を紹介しよう。数学者・藤原正彦氏の著書『祖国とは国語』でその人を知った。
山本のことを「いじわるじいさん」と愛情たっぷりに呼ぶ藤原氏いわく、「諦念と開き直りがポーズでないからこそ」、このような言葉や「何用あって月世界へ?――月はながめるものである」などという「歴史に残る警句が発せられるのだろう」とは、まったくそのとおりだと思う。
大正生まれの山本夏彦は、敗戦後の日本を憂いた一人である。
その憂いの根幹にあるのは、おそらく、人の「善」なる心に潜む「危うさ」に帰するものではないか。
彼は「善極まれば悪となる」ことを、早々に嗅ぎつけていた。
「言葉は乱用されると、内容を失う。敗戦このかた、平和と民主主義については言われすぎた。おかげで内容を失った」
と書き残しているのが、その証左だろう。
今一度、考えてほしい。
たとえば、東日本大震災のあとに広がった「つなぐ」や「和の心」、あるいは「おもてなし」などの言葉を。
これらの言葉は、はたして言葉どおり正しく使われているだろうか。
繋がることを「善」とする人に、繋がらない人や繋がれない人は「悪」と映ってはいないか。
「和の心」こそ平和への道筋と捉えれば捉えるほど、その心は和の心から遠ざかり、傲慢になってはいないか。
おもてなしも、これみよがしな仰々しさがあったり一方的なものならば居心地も悪い。
つなぐことは、必ずしも「つながる」ことではない。
和の心とは、同調圧力のことなのだろうか。
おもてなしも、人それぞれ受け取り方はちがうはず。
松永弾正久秀の一生を描いた歴史小説『じんかん』(今村翔吾著)に、こんな言葉のやりとりがある。
応仁の乱以降つづく細川家の内紛により、同族一派を滅ぼして尼崎に逃げ落ちた細川高国が、松永久秀の機転によって捕らえられたときの一幕だ。
「お主は武士が天下を乱していると、民を苦しめていると思っているのではないか?」(高国)
「その通りでしょう」(久秀)
「それは大きな勘違いというもの・・・そもそも世の9割が民。この全てが立ち上がれば武士など木っ端微塵よ。では何故、立ち上がらぬ」(高国)
「初めに起つ者は恐ろしい。その恐れを刷り込んでいるのもまた武士です」(久秀)
「だが大きな一揆が何度も起こっているように、実際に立ち上がる者はいる。それなのにだれも続いておらぬではないか。……答えは一つ。民は支配されることを望んでいる」(高国)
高国いわく、民は自らが生きる一生のことしか考えず、その後も脈々と人の営みが続くことなどどうでもいいというのが本音で、今の暮らしが奪われれば民は怒り狂う。結局、民はみな、「快」か「不快」かだけで生きているのだと。
そして、すべての民にあまねく共通する「快」こそ「善の心」だという。
小説だから事実かどうかわからないが、かなり人の本質を突いていると思う。
この「武士」を「トップ」あるいは「少数派」などと言い換え、「民」を「大衆」と言い換えてみれば、いまの社会のありようも一目瞭然ではないか。オルテガの言う「大衆の反逆」と同じだろう。
しかも、「民」の「善の心」を煽る輩は、いつの時代にもいるということだ。
良くも悪くも、言葉は勝手気ままに一人歩きする。
歩けば歩くほど伝言ゲームのように、原型をとどめることは期待できない。
人の心はあやうい。
言葉はそれ以上に、あやうい。
今回は「月影(つきかげ)」を紹介。月の影であると同時に月の光でもある月影。とりわけ歌に詠まれる月影は、夜空からふりそそぐ月の光を言うのでしょう。続きは……。
https://www.umashi-bito.or.jp/column/
(201107 第679回)