人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。
数学者、藤原正彦のエッセイはじつにおもしろい。この言葉も著書『祖国とは国語』にあったのだが、身の上話も自虐話も、社会への提言でさえ嫌味なくサッパリとして、まったく偉そうでないところがいい。数学者とは思えない明るさ。なんど読みながら大笑いしたことか。学校の教科書も、こんな本なら子供たちも楽しく学ぶだろうに。
子供たちの国語力の低下が叫ばれて久しい。
ある調査では、大学1年生の2割が中学生レベルの語彙力しかないという結果があがった。となると、それ以下の小中高生の語彙力は、いったいどれくらいなのか。
子供たちがそうであるということは、大人たちの語彙力に問題あり、ということは十分考えられる。
幼ければ幼いほど、身近な大人や周りに散乱する言葉から語彙を得ているのだから。
これにはインターネットやSNSの普及が背景にあるというが、だとしたら、今後ますます日本人の語彙力の低下は加速する恐れがある。
語彙力は国語力があって、はじめて身につくものだ。
会話にしろ、文書にしろ、語彙力がなければ話すことも書くこともできない。つまり、自分が伝えたいことを、正しく伝えられないということだ。
間違った言い方をして誤解を生んだり、関係にヒビが入ったりと、嫌な思いもしかねない。
対人関係の問題などによる鬱や引きこもりも、もしかすると国語力の低下も起因しているのではないか。
その国語力、身につけるには「読む」しかない。
藤原氏も、国語の中心はあくまで「読み」だと言っている。
「充分な量の読書さえしていれば、聞いたり話したりは自然にできるようになる」と。
「ただし、読めばよいというわけでもない」と、注意書きして。
読むものの選択も、「読む」ことのひとつなのだろう。
なぜなら「国語が思考そのものと深くかかわっている」からで、「言語は思考した結果を表現する道具にとどまら」ず、「言語を用いて思考するという面がある」からだ。
つまり、その人がどんな言葉で、どんなことを話すのかは、その人がふだん読んでいるもの、目にしている文字、聞いている言葉のあらわれなのだ。
「相手の身になって考えろ」と言ったって、国語力、語彙力がないのに考えられるわけがない。
多くの社会問題の根っこに潜むものは、国語力の低下と無関係ではないと思う。
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今回は「面映(おもは)ゆい」を紹介。なんとも照れくさい、気恥ずかしい。鏡を見ずとも頬の赤らみがわかる。そんな様子が「面映ゆい」です。続きは……。
(201203 第685回)