遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ
後白河院が編纂した今様集『梁塵秘抄』から。中でも一番有名なのが、この一首だろう。そういえば樹木希林さんも生前、『梁塵秘抄』を愛読していたそうな。彼女の生き様もこの歌のように無邪気そのものだったろうと思う。辛苦のなかにあってもなお。
無邪気に遊ぶ子供を見ると、ふっと顔がほころぶ。
幸せそうだねえ、楽しそうだねえ、と。
ああそうかぁ、きみたちは遊びたくて生まれてきたんだねえ。
ふざけたりイタズラするのが楽しくて生まれてきたんだねえ。
きみたちの楽しそうな笑い声を聞くと、体がムズムズするよ。
なるほど、体は正直だ。
人は遊楽を味わうために生まれてきたのかもしれないねぇ。
なんて勝手な解釈をしてしまったが、おそらく遠からずだろうと思う。
小難しいことばかり考えていると頭が四角になってしまうし、辛いことや苦しいことに囚われると、心と体は硬直する。
かちんこちんになってしまっては、ガラスのようにやがて壊れる。
それじゃあいけない。
それじゃあいけないけれど、そうなってみないとわからない。
心身を壊してはじめて健康のありがたさに気づくように、
無邪気なうちは、無邪気がどういうものかはわからない。
無邪気さはそのうち邪気に染まるだろうし、
邪気が極まり痛い目をみれば、邪気は落ちて無になれるのかもしれない。
『梁塵秘抄』からもう一首。
――法華はいづれも尊きに この品(ほん)聞くこそあはれなれ 尊けれ
童子の戯(たはぶ)れ遊びまで 仏に成るとぞ説いたまふ
なるほど、子供の戯れ遊びは神仏につながっているようだ。
なにがなくても、だれに教えられずとも、子供は自然に遊びはじめる。
内からわきでる思いのままに。
それはきっと、内なる神仏の声にちがいない。
笑い声も泣き声も。
さあ、大人も子供のころにもどって、泣いて笑って遊んでみよう。
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今回は「たなごころ」を紹介。手と手を合わせる合掌の「掌」が「たなごころ」。手のひらのことです。続きは……。
(201215 第688 回)