あだみかた 勝もまくるも あはれなり おなじみ国の 民とおもへば
江戸後期から明治初期に生きた尼僧、大田垣蓮月は歌人でもあり陶芸家でもあった。自作の和歌を掘った「蓮月焼」は贋作が出回るほど人気を博したという。収入のほとんどは施しや架橋工事などに使い、自身は清貧の暮らしを送ったそうだ。その暮らしを共にしていたのが、少年期の富岡鉄斎。鉄斎の人格形成に影響を与えたであろう蓮月は、勤皇の志士とも交友があったというから、この歌の出所が伺える。
時代の変転には災いや争いはつきものなのだろう。
噴火、地震、火災、水難、疫病、戦争・・・。
歴史を紐解いても、そのことは容易にわかる。
しかし一方で、新しい息吹に胸踊らされることがあるのも事実。
厳しい冬のあとに、ほのぼのとした春の訪れを感じるように。
ただ、その境目のただ中にいる間は、いつ終わるとも知れない不安に苛まれもする。
不安がマックスになれば、他者に牙を剥くこともあるし、自滅さえ考えられる。
だからこそ、完全にはいかなくともなるべく自分も他人も傷つけない道を探りたい。
と、思っていたところに蓮月の歌を知った。
――あだみかた 勝もまくるも あはれなり おなじみ国の 民とおもへば
敵も味方も、おなじ国の人間同士と思えば、勝とうが負けようがあわれなこと。
「おなじ国」でなくても、おなじ地球上でおなじ人間同士が争うことの、なんとあわれなことだろう。
辻邦生の『西行花伝』に、こんなくだりがある。
「もしもこの世のすべてのことが、勝と負、成功と不成功から成るなら、真(まこと)の理法(ことわり)とは、勝だけ、成功だけではなく、反対側の負、不成功もともに引き受けるものではないか」
世の多くは真の理法ではない、ただの理法に酔っている。
ただの理法とは、勝利や成功に導くもので、負けや不成功は認めない。
だから、勝利や成功に役に立たない余分なものは切り捨てる。
それは真の理法からみれば、痩せた心、心なき心だ、と辻邦生は西行に語らせる。
世の中がただの理法で成り立っているのだとすれば、はたして天変地異は起こるだろうか。
勝利や成功とは、なにをもってそう言うのだろう。
立場が変われば、勝利も成功も反転するというのに。
あいてもおなじ人間、おなじ命ある生き物と思えば、勝ちも負けも、成功も不成功も、おなじように尊く意味のある大切なことではないか。
そう思えたら、「生きる」ことがもっと楽になるだろう。
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(210105 第693回)