幸福とは自分で見えるものではない。けど 他人からは見えるのだ
某新聞に「こどもの詩」というコーナーがある。1967年5月にはじまり、今年の5月でまる54年になる予定らしい。投稿者は中学3年生以下の子供たち。修学未満の子供の言葉は家族が耳にした我が子のなにげない言葉を書き留めて送ってくるという。
子供たちの言葉はみずみずしい。とりわけ幼児期の感性や想像力は、かくも清らかで澄みわたっているものかと驚く。そういうものは中学生を境に変化してゆくのだろう。この言葉は2015年当時、中学2年生だった男の子の言葉だ。2017年に50周年記念として出版された著書『こどものしっぽ』に掲載されていた。
はたして少年は、「幸福」を他人のなかに見たのだろうか。
だれかに「君は幸福だね」とでも言われたのだろうか。
自分はそうは思わないのに。
あの子のほうが幸福そうに見えるのに。
そうなのだ。
自分がいかに幸福かということは、自分がそう思わないかぎり幸福とはいえない。
ずっとぬるま湯につかっていたら、外の寒さ冷たさがわからないのと同じように。
外から見れば、「なんてアイツはあったかそうなんだ」と思われているというのに。
人は幸福になりたいと願う。
すすんで不幸を選ぶ人はいないだろう。
そう、自らすすんでは。
「幸福とは自分で見えるものではない。けど 他人からは見えるのだ」
当時中学生だった彼なら、幸福とおなじように、不幸も見えるのではないだろうか。
すすんで不幸になりたい人はいないだろうけれど、他人からはそう見える人はいる。
不幸というか可哀想というか、そういう風に見える人が。
自分がどれだけ恵まれているかと気づかず、もっともっとと「幸福」という福袋をあさっている人。
他人の芝生の青々しいことを羨み、妬み、自分の庭の手入れを怠っている人。
身の丈に合わないものを身につけて、動きづらそうな人。
どれもこれも、外からはよーく見える。
幸福も不幸もおなじように。
自分でわからないなら、誰かに聞いてみるといい。
ノートに書き出すのもいいだろう。
すると見えてくるものがある。
じつは、幸福も不幸も正体はおなじ。
表か裏か、上か下か。
見方、捉え方が違うだけだということを。
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(210115 第695回)