教育とは〝他者〟を正しく知らしむべきものである
作曲家、武満徹の言葉を紹介。「学校にはぼくは縁が薄く、ついに一度も音楽教育というものを受けませんでした」と、中学校もろくに出ていないと告白する武満。独学で音楽を学び、「世界のタケミツ」となったのは学校教育というより、やはり天より与えられた能力に自ら気づき自ら育てた結果だろう。著書『音、沈黙と測りあえるほどに』から。
子供の詩を集めた詩集『ことばのしっぽ』に、「手話」という詩を見つけた。
ある少年が、耳が聞こえない人に出会ったときのことを綴っている。
―― 耳が聞こえない人に会ったのは
初めてです
耳が聞こえない人と聞こえる人の
見わけがつきませんでした
ぼくたちは 手話をいろいろと
教えてもらいました
拍手が 手話だったと知りました
2006年当時、小学3年生だったこの少年は、当たり前のように音のある世界に生きていた。
ところが、あるとき聴覚障害をもつ人と出会ったことで、実は音のない世界も存在するのだということを知ったのだ。
一見、同じに見える人であっても、そこには推し量ることのできない、目に見えない壁が存在することを、彼は体験から学んだ。
彼の目に映る世界は、ずいぶん変わったにちがいない。
数年後の今、彼はどんな風に成長しただろうか。
「知ることは自分が変わること」と、養老孟司氏も言っている。
それが成長の証だと。
人間誰しも一皮むけば肉と骨の塊だが、その薄い皮膜の隔てる世界はあまりに奥深く闇に包まれている。
つながろうとすればするほど、皮膜に保護された世界に弾かれてしまう。
世界は一つであってひとつではない。
自分には自分の世界があるように、他者には他者の世界がある。
他者との違いを正しく知らしめ、人が成長するならば、
世界は調律され美しいシンフォニーを奏でるかもしれない。
今回は「いとしい」を紹介。漢字で書くと「愛しい」。愛しい我が子、愛しい人と、言葉ではうまく言い表せない切ない思いを、人はいつからか「いとしい」と言うようになりました。続きは……。
(210323 第709回)