自由なるものの象徴を手にしていることは、自由さそのものを手にしているよりも幸福なことかもしれない
村上春樹氏の小説『海辺のカフカ』のなかの一節である。15歳の「僕」、田村カフカの成長冒険記であるこの物語は、ギリシャ悲劇と日本の古典文学を下敷きに書かれたそうだ。
つくづく思うのだが、村上さんって、日常的に現実と非現実の世界を、マルセル・エイメの『壁抜け男』のように行ったり来たりしているんじゃないだろうか。普段から、にゅるっと壁に顔をつっこんで、向こうの世界を覗き込んでいるような気がする。
人は常にないものを求める。
それはある意味、正常な反応であり、欠けたところを補おうとするのは生き物であれば当然だと思う。
しかし、人間は知能がある分、他の生き物よりも「欲」に対する反応が過剰になるから、理性でその過剰な欲を抑える必要があるのだろう。
宗教が生まれた理由もそこにあるはずだ。
自由の希求も、不自由であるがゆえのこと。
学生や会社勤めの人、主婦たちの多くが自由を求めるのも無理はない。
といって、彼らが本当の自由を手にして満足するかと言えば、それも怪しい。
村上春樹氏も、登場人物の大島さんの口を借りて、こう言っている。
「世の中のほとんどの人は自由なんて求めていないんだ。求めていると思いこんでいるだけだ。……もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。……
人々はじっさいには不自由が好きなんだ」と。
このセリフの背景にあるのは、ジャン=ジャック・ルソーの
「人類が柵をつくるようになったときに文明が生まれた」
という定義である。
つまり、「すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物」というわけだ。
つくづく人間というのは矛盾したことばかり考えつくなあと感心するが、その柵の外には野生の猛獣たちがいることを思えば、柵のなかでピクニックでもしていたほうが安全だし、それはそれで楽しいかもしれない。
とりあえず、柵の中では好きなことをして自由に過ごせるのだから。
音楽を聴いたり、歌たり踊ったり、本を読んだり、料理をしたり、飲んだり食べたり…。
これさえあれば心も安らげる、という「自由なるものの象徴」を手にしていることは、たしかに「自由さそのものを手にしているよりも幸福」にちがいない。
今回は「踏青」を紹介。 「踏青(とうせい)」とは、文字どおり青きを踏む。春先の萌え出た青草を踏んで野山を歩き遊ぶことです。続きは……。
(210508 第718回)