ウソ偽りがないと自分が思えることを精一杯やっておくんだよ。
法隆寺最後の宮大工棟梁である西岡常一の唯一の内弟子であり、寺社建築専門の建設会社「鵤工舎」の創設者、小川三夫棟梁の言葉である。著書『木のいのち木のこころ』の巻末で、糸井重里氏との対談で語っていた。
この言葉の発端は、「伝統」にあった。
西岡棟梁に学んだ小川氏には、伝統を引き継いだという感覚はないという。
そこにあったのは、薬師寺の塔や法輪寺の塔といった「作ったものが残る」ということだけで、「伝統を残す」というものではなかったそうだ。
「建物を残せばおのずから何かは伝わりますわ」
小川氏いわく、
それを伝統と呼ぶなら呼んでもいいが、だからといって決まりきった教科書どおりを伝えることとは、ぜんぜん違う。
あえて言うなら、
「ウソ偽りがないと自分が思えることを精一杯やっておくんだよ」
と、いうこと。弟子たちによく言うことらしい。
伝統というものが、単なる数値的な技術の継承ではなく、そこに時間と空間、そして人の心も加わるのだということがわかる。
「毎日毎日の仕事を、精一杯やっておく。その精一杯が未熟であってもいいんです。未熟だろうがなんだろうがその時の自分はごまかしようがないんですから」
未熟であっても、ウソ偽りのないもの、一生懸命やってやってやりきって作ったものは、のちにそれを解体した誰かが「当時の人はこう考えたのか」と読みとってくれるのだと、小川氏はいう。
それは、何の資料もないなかで法隆寺の復元を果たした西岡棟梁の姿に結びつく。
法隆寺の修復にあたりながら、かつての工人たちと会話をし、その仕事の全貌を知ることで、1300年以上も前の寺が復元されたのだ。
西岡棟梁のその姿を見ていた小川氏だからこそ、伝統というものは「ウソ偽りのない精一杯の仕事」だと言明する。
「伝統」というと重々しいが、「伝える」とすれば、もっと身近に引き寄せられるのではないか。
そう考えると、伝統は「伝える」というより「伝わっていく」と言ったほうがいいかもしれない。
「好事不出門 悪事行千里(こうずはもんをいでず、あくじはせんりをゆく)」という禅語があるように、いいことは伝わりにくが、悪いことはあっという間に伝播する。
だからこそ、
「ウソ偽りがないと自分が思えることを精一杯やっておくんだよ」
ウソ偽りは他人よりも、まず自分に向けて伝播し、心を侵食してしまうのだから。
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(210620 第727回)