メンターとしての中国古典
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私たちについて
紺碧の将

義をみて為(せ)ざるは勇なきなり

2019.03.20

論語にこんな一節があります。
その意味は、「人として正しいことをやらないのは勇気がない」ということです。

 

つまり、「正しいと思ったことは、自信を持って行動に移しなさい!」と、私たちの背中を押してくれているのです。

 

人生は意思決定の連続

 

 我々は日々意思決定を迫られます。日々どんな選択をするかによって、大きく人生が変わります。小さな判断でも、積み重なれば決定的な違いをもたらします。しかし、

 

・やるべきことはわかっているが、躊躇して最初の一歩が踏み出せない
・やり始めたが、心が折れて途中で頓挫してしまった
・決断ができず、後になって後悔した

 

誰しももう少し勇気があれば、人生がもっと良い方向に変わっていたのではないかと思った経験があるのではないでしょうか。

 

そんな時に、誰かが少し背中を押してくれれば、勇気を持って良い選択ができるかもしれません。

 

「義」とは

 

 義という文字は、「美」と「我」を組み合わせてできています。「美」という文字は、「大きい羊」、それは生け贄を意味します。生け贄は仲間を救うために、犠牲になるものの象徴です。つまり自分を犠牲にしてでも、人のために何かすることを「義」というのです。貢献に焦点を当てた生き方が、人として一番美しい姿であるというのです。
 一方、不義は義理を欠く行為、つまり人を騙したり、陥れたりする身勝手な行為をさし、人として醜さの表れと言えるでしょう。

 

人間の弱さ

 

 人として何が美しい行為で、何が醜い行為であるか、我々は本能的にわかっています。しかし、自分可愛さに躊躇したり、誤った選択をすることが少なくありません。
例えば、

 

・電車で座席に座っていて、目前に老人や妊婦さんが来た時、「席を代わるべきであるが、このまま座っていたい。誰かが代わるだろう。自分より若者もいるのだし、彼らが代わるべきである」などと寝たふりを決め込む。
・会議で納得できない方向に話が進んでいる。異論を唱えるべきであるが、波風を立てて会議を紛糾させると大変なことになる。空気が読めない奴とレッテルを貼られたり、孤立無援になるのも嫌だ。面倒なことは避けて、発言せずに済ませてしまおう。
・大きな成果を求められているが、正攻法では結果が出せない。そんな時、間違っているとわかっていても、不正や改ざんに手を染めてしまう。一度だけと決めたけれども、そこから抜けられず繰り返して神経が麻痺してしまう。

 

 法を犯すことは論外にしても、個人の欲や組織の利益のために、人として間違った行為を選択することは、心の弱さを表すものであり、正に「義を見てせざるは勇なきなり」に該当します。
 一般的に勇気というと、失敗を恐れず、大胆不敵に実行することをさしますが、それは単なる無謀に過ぎず、一か八かに賭けるのはギャンブルであり評価できません。

 

正しい選択をするために

 

 世にはリーダーとして重責を担っている人がたくさんいます。会社の発展や部下の成長を考えれば、短期的な利益を犠牲にしてでも、新規企画や新規開拓や人材育成など投資的な時間やお金を使うでしょう。しかし、利益至上主義で、目先の利益を優先すれば、将来への投資的な行為は先送りするでしょう。
ここが、組織の方向性を決める大きな分岐点となります。どちらを選択するか、その判断基準も「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」と言えるでしょう。

 

自信の源泉を掘る

 

 成功を導くためには、やり始めたら迷いなく思い切ってやり抜く力が必要です。つまり自信は成否を大きく左右します。では自信はどうすればつくのか。一つは成功体験を積むことです。しかし、未知のことにチャレンジする時に成功体験はありません。根拠なき自信も必要かもしれません。しかし、真面目で心配性の人は根拠なき自信など持てないでしょう。

 では何を自信の拠り所とするのか。それは「正しいことをやっている」という自信です。自分の利益ではなく、貢献に焦点を当てて、人の幸せのためにやっている。疚しいことは何一つない。そんな晴れ晴れとした清々しい気持ちでやっていれば、周囲の共感を得られ、物事は上手く進んでいくでしょう。

 孟子にこんな一節があります。
「自ら反りみて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾れ往かん。」その意味は、自分自身を省みて疚(やま)しいところがなければ、たとえ敵が千人万人だとしても、私は進んで行くという意味です。

 

最後に

 

 実は私自身、かつては「論語」など儒教の思想を懐疑的に見ていました。それは過去において政治的社会的に悪用され、多くの人を不幸にした歴史があったからです。しかし、それは思想や言葉が悪いのではなく、利用した人の心が悪いのであって、本来の意図を理解し、良いものは上手く活用すべきだと考え直しました。
 中国古典には、人間社会の規範を説いた儒教だけでなく、老荘思想や易経といった宇宙から社会を見たマクロ視点の思想もあります。
 4000年の風雪に耐えてきた中国古典の言葉には、人に勇気を与え、人を導く力があります。その言葉を自分のメンター、つまり背中を押してくれる経験豊富な応援者として活用することをお薦めしたいのです。

(190320 第1回)

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