メンターとしての中国古典
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紺碧の将

学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍らず、亦君子ならずや

2020.03.04

「喜び! 楽しみ! 気にしない!」

 

 これは論語の冒頭の一節です。中国古典の各書物の冒頭文は、その書の一番言いたい要点を述べています。

 その意味は、

「学んだことを時に復習するのはより理解が深まり喜ばしいことだ。

 友人が遠くから訪ねてくれて学問について話合うのは楽しいことだ。

 他人に理解されなくとも気にしないと言うのはとても立派なことだ。」

 

 堅苦しい印象のある儒教の代表格である論語ですが、意外にも「喜び! 楽しみ! 気にしない!」と言っているのです。会社からの評価、人目や世間体に縛られストレスに苛まれている現代人には朗報と言えるのでしょう。

 

 まず最初の「学びて時に之(これ)を習ふ」。ここで言う「学び・習う」とは、知識を身につけ、スキルを磨き、より優れた人間性を身につけ、人とし成長し、より良い生き方を身につけていくということでしょう。知識の量を競ったり、物知りを自慢するための知識ではありません。

 

愚直な経営者に学び・習う

 

 アラ還になった自分を振り返ってみて、何を学び・習ったかを自問自答をしてみました。学生時代の勉強と部活、社会人になってからも多くの師からたくさんのことを学びましたが、その代表格は「独立自尊のオーナー経営者からの学び」です。

 以下、拙著『「愚直経営」で勝つ!』(PHP研究所)より抜粋しご紹介させていただきます。 https://amzn.to/2IfIx39

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 私が高校2年生のときのことです。第2次オイルショックで繊維の輸出に依存していた地元の産業は一気に衰退し、街は元気を失いました。わが家にもその余波が大きく襲いかかり、父の勤めていた会社は廃業、父は失業の身となってしまったのです。 この体験から、「経営者は強く、社員とその家族を守らなければならない。社員もいつ何時どんなことがあっても生きていけるように、自己責任で力を蓄えておかなければならない」、そう心に刻んだのです。

「絶対に給料のいい有名会社に就職してやる!」という思いで就職活動をしましたが、その気持ちが強すぎたせいか空回りし、最終的に地元の中堅企業に就職することになりました。そこはオーナー経営者の凄まじいパワーで成長し、上場したばかりの会社でした。入社直後、経営者から卒倒するほどの厳しい指導を直接受けたりもしました。直属の上司は経営者のご子息であり、その頃から創業経営者と後継者というものを目の当たりにしてきました。(中略)その後、27歳でコンサルティングの世界に入り、それ以来25年にわたり中小中堅企業に対する経営コンサルティングをさせていただいてきました。

 20代の頃、親子ほども歳の差がある経営者は個性が強く一筋縄ではいかず、若造が経営の助言をすることの難しさをひしひしと感じていました。それまで学んだ大企業の事例を元にした経営書は、ほとんど現実に合わず役に立ちませんでした。先生といわれる立場ではありますが、実際のところ、お金をもらいながら実践的な経営について学ばせていただいたと思っています。

 大半の方が会社の借金を個人で保証し、万一の場合には一家離散のリスクを抱え込む覚悟の経営者でした。アルバイトの学生が警察に補導されたとき、自分が親代わりに身元引受人になった情の厚い経営者。「契約書はなくても一度約束したことは絶対に守る」と断言する信用を重んじる経営者もいました。そして私が在籍していたコンサルティング会社の社長は、社内の会議が大紛糾し、結論が出ずに終わった直後のセミナーで、先ほどのモヤモヤを一切感じさせない自信たっぷりの態度で経営のあり方を説いていました。そんな経営者たちの姿を見て、その精神力の強さと愛情の深さに驚愕し、尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。

 あの頃から時間がたち、今は近い世代となった人たちにも 同様の思いがあります。これまでたくさんの尊敬できる経営者に出会い、経営の本には書かれていない、独自に編み出された現場主義の経営手法から、人間学や処世術まで数多く学ばせていただきました。このような人生の糧となる機会をいただいたことに心から感謝いたします。まさに、愚直な経営者こそ私の人生の師なのです。 

 

信頼できる友と語り合う

 

 次は、「朋(とも)有り遠方より来る」です。

 アラ還になってくると昔の友人と会う機会が増えるように感じます。近くに住んでいる同級生や先輩・後輩との飲み会やゴルフなど、利害関係がなく気のあう仲間が久しぶりに会って、仕事の状況、家族のこと親の世話のこと、別の友人のこと、定年後のことなどとりとめもなく話します。もちろん、故郷に帰った時も同様で、心が和んだり、刺激を受けたりと心地よい時間を過ごすことになります。この至福の時は、長い人生のバックボーンがあって初めて得られる貴重な時間と言えるでしょう。

 ちなみに、友とはともに学んだ学友、志を同じくする友、困った時に相談できる友など、安心して心を開ける関係にある人を指すのでしょう。組織での立場とか、利害関係とかがなく、価値観が合い共感が得られる関係と言えるでしょう。つまり「五倫」で説かれているように、「信」(信用・信頼)が持てる人のことをさします。遠方で言う距離は、空間的な距離だけでなく、時間的な距離も指すのでしょう。

 

参考:「五倫」とは

父子の親:親と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。

君臣の義:君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。

夫婦の別:夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。

長幼の序:年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。

朋友の信:友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。

 

承認欲求の呪縛からの解放

 

 最後は、「人知らずして慍(いきどほ)らず」です。

 ここの要点は、人が認めてくれなくてもイライラするな。移ろいやすい人の世間に惑わされるな。そんな意味ではないでしょうか。しかし、これがなかなかの難題です。なぜなら、人間は他人に認められたいとう強い欲求(承認欲求)があり、その制御が難しいのです。

 このことに関しては、同志社大学の太田肇教授が、『「承認欲求」の呪縛』(新潮新書)で詳しく述べられています。 https://amzn.to/2uMZX3Y

 

 承認欲求とは、マズローの欲求階層説にも出てくる人間の大きな欲求の一つであり、人に認められたり、自分を重要な人間として認めたいという欲求です。

 承認欲求をうまく刺激すると、自己肯定感や自己効力感などが強くなる、ドーパミンが分泌され内発的モチベーション(やる気)が高まるなど、人に良い影響を与えます。

 しかし、この「認められたい」という欲求が、「認められなければならない」といういう欲求に変わる時、つまり度を越した時に呪縛が引き起こされます。

 呪縛にかかるとどんなことになるかというと、人目を気に過ぎ、過剰なプレッシャーやストレスに苛まれる、NOと言えなくなる(人に操られるようになる)、嘘をついたり虚勢をはる、忖度・改竄・隠蔽・嘘をつくなど不正行為に走る、嫌なことから逃げ出せない、うつ・自殺などをひき起こします。

 どんな人がこの呪縛にかかりやすいかというと、トップに躍り出てそれを守ろうとする人(スポーツ界など)、官僚や有名企業など失敗なく成功を続けたエリートの人、一つの組織で他に行き場がない人(終身雇用で会社と家の往復の人)、上と下の両方から板挟みの中間管理職、そして普通の人。誰でもかかる現代病と言えるのでしょう。

 処方箋としては、人と比較しない、多面的に考える、善か悪・正か誤の二元論で考えない、自分の意志を持ち行動する、多様なコミュニティに属する、優等生から脱皮し等身大で生きるなどです。

 

 論語の冒頭文は短い節ですが、とても奥深いものです。

 

 

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