道に志し、徳に依り、仁に依り、芸に游ぶ
理想の生き方
これは論語の一節ですが、この意味は「人としての正しい道、つまり人格者たらんという志を持ち、徳に依りそって、仁の心に従い行動して、技芸を楽しみなさい」そんな意味になります。
これは理想の生き方を示しています。人として正しい道を歩むことを目標とし、すぐれた徳性を身につけ、思いやりの心で人に接し、趣味や教養(芸)を楽しむ余裕を持って毎日を過ごす。老後資金2000万円問題が騒がれていましたが、お金も大事ですが、こんな人生を送れるかどうかも議論されてもよいのではないでしょうか。
道とは
「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり 」という有名な一節が論語にあります。この意味は、「朝のうちに理想を実現する正しい道を知ることができたなら、その日の晩のうちに死んでも心残りはない」というのです。つまり人としての正しい生き方(道)を極めることが究極の目的であり、到達が極めて困難なものである。だから日々学び実践しなければならないというのです。難しいけれど生涯の目標があるのは幸せなことだと思います。
出世して高い地位を得る、事業を成功させる、お金持ちになる、ピンピンコロリの生涯を送る、などいろんな目標があると思いますが、人格者になるという究極の目標もかなり価値のあるものだと思います。
私の志
私が中国古典を本格的に学び始めたのは、資料で振り返ってみると2010年11月17日、テーマは老子の反朴第二十八でした。その頃を振り返ってみると、独立して約10年が経過していましたが、それまでは売上を如何に増やすかばかりを考えていました。リーマンショックの影響もあったと思いますが、売上を増やし収入を増やすことに終始し疲れを感じていました。ある意味、虚勢を張ってばかりの自分に限界を感じていたと言えるかもしれません。これから何を目標にしていけばいいのわからないカオスな状況にあったとも言えます。そんな時に、中国古典を学ぶ機会に恵まれました。
老子の反朴とは朴に返る、つまり素朴に返るということです。朴(樸)とは山から切り出した加工が一切されていない皮のついた丸太のことです。つまり原点に返って自分の持ち味を活かして可能性を求めていこうということです。完成を目指すのではなく、可能性の模索にフォーカスしようということです。そう考えることによって、心が軽くなり希望が見えてきました。そして徳性を身につけ、自分の持ち味を活かして人に貢献することを生涯の目標にしてみようと考えるようになりました。
仁と恕
仁とは人への優しさ、人を慈しむ心です。人と同義語として「恕(じょ)」という言葉があります。それは、人の身の上や心情についての察し同情する、その気持ち・思いやりを指します。
論語にはこんな一節があります。「子貢問ひて曰く、一言(いちげん)にして以て終身之を行ふ可き者有りや。子曰く、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」。この意味ですが、「子貢がたずねて言った、ただひとことで、一生行っていくに値することばがありましょうかと。孔子が答えて、それはまず恕(すなわち思いやりの心)だろうな。(恕というのは)自分が(人から)されたくないことは、人にもしてはならない(ということだよ)と」。
仁義礼智信を五常の徳といいますが、そのトップバッターが仁、思いやりの心なのです。
芸に遊ぶ
芸とは何か。孔子の生きた春秋戦国時代(紀元前770年から、紀元前221年に秦が中国を統一するまで)の頃から前漢の武帝(在位前141-前87年)の時代までは、詩経、書経、礼記、春秋(伝が3つある)6つの経典を六芸と言いました。
後に経典と分離し、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養として、礼儀、音楽、弓術、馬車を操る術、書道、算術を指すように変わりました。ちなみに、日本では古代中国の影響を強く受けるかたちで四書五経や漢詩は伝統的に重要視されてきました。やがて日本独特の諸文芸や和歌がこれらと並ぶようになり、文人画などの絵画を自ら描くことも教養の一部を担っています。
このように、古典に通じ、ハイカルチャーを身につけることが伝統的な教養の重要な要素とされ、これらはいずれも人格向上の一助とされています。
教養とは
一般に、教養とは独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルのさまざまな分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指します。これは西欧の高等教育で扱われているリベラル・アーツに相当するものとして捉えられ、ギリシア時代の自由人のための学問に起源を発しています。「教養ある人間」、すなわち、教養人が相応の尊敬を得るのは、単に知識が豊富な状態(博識)に留まらず、人間性という実を伴うからです。教養とは知識を求めて学ぶことで品位と人格を高めようとするものと言えるでしょう。
権力と教養
論語の中で孔子が説いているのは、ある意味、リーダーシップ論です。君子つまり立派な人が人の上に立つべきであり、人の上に立つことになった人は、「道に志し、徳に依(よ)り、仁に依り、芸に游(あそ)ぶ。」を実践しなさいと言っているのです。人の上に立つ人とは、企業で言うなら経営者、役員、管理職などです。社会でいうと政治家、官僚そして役所のスタッフでしょう。また、引退した人間も同様のことが求められるでしょう。
人格や教養なくして権力を握ると権力が私物化され、利権や暴力となってしまいます。これほど恐ろしいことはありませんし、他国のことと呑気にしてもいられません。政治家を選ぶのは国民ですし、国民に教養がなければ、適切な人を選べないということになります。ということは、全国民が目指すべき姿が、この論語の一節に示されているということになるのではないでしょうか。