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紺碧の将

空前絶後の宰相の生きざま、その逸話と証言

file.100『甲東逸話』勝田孫彌 マツノ書店

 

 本コラムは今回で100回を数えた。タイトルにあるように、最終的には300冊を紹介する予定だから、3分の1を達成したことになる。節目の一冊をなににしようかと考えあぐねた結果、勝田孫彌が編纂した本書を選んだ。冨山房が1928年に出版したものを山口県のマツノ書店が450部限定で復刻したものである。幸いアマゾンの中古マーケットで新品同様の本を入手することができた。

 甲東とは大久保利通の雅号である。西郷隆盛の雅号、南洲は人口に膾炙しているが、甲東はあまり聞かない。それだけ大久保の人気がないということだろう。

 甲東とは鹿児島市の城下を流れる〝甲突川の東〟を意味する。大久保が生まれたのは甲突川の西岸だが、少年時代、川の反対側に移り、そこで揺籃期を過ごしている。加治屋町という、半径250mに満たない一角である。その小さな地区で西郷隆盛・従道兄弟、大山巌、東郷平八郎、井上良馨、吉井友実、伊地知正治、村田新八らが生まれ、育った。まるで見えない特別な経路で宇宙のエネルギーとつながっていたとしか思えない。ある一時期に集中し、しかもそれほど狭い地域にこれほど多くの傑物が生まれたのは長い人類史においても他に例がないのではないか。

 彼らは互いに切磋琢磨し、未曾有の内憂外患を乗り越える原動力となった。

 

 本書はタイトルの通り、大久保に関する逸話をまとめたものである。旧字を使った文語体で書かれているため、けっして読みやすい本ではないが、内容はきわめて興味深い。大久保という日本史上稀有な人物と同じ時代に生きた人たちが、彼をどう評価しているかを通して、当時のわが国の状況がリアルに浮かび上がってくる。

 大久保利通が生まれたのは、1830(文政13)年。江戸幕府がアメリカなど5カ国と修好通商条約を結ぶのは1858(安政5)年だから、大久保が28歳のときだ。日本は近代国家としてのうぶごえをあげたものの、とうてい国の体裁を整えているとはいえない状態だった。憲法も法律もない。政治の仕組みも定まっていない。まともな軍隊もない。産業の大半は農業で、公共交通など社会インフラはなきにひとしい状態だった。

 明治4年に断行された廃藩置県によって、200万人以上もの武士が身分を奪われ、世情は悪化の一途をたどっていた。明治維新は彼らの働きによって成し遂げられたが、一転して彼らは〝不要な人たち〟の烙印を押されたのだから、彼らの不満が沸騰するのは当然だった。戊辰戦争で勝利した薩長側にも新政府に不満をもつ者が多かった。まさに当時の日本は、四分五裂のありさまだった。そんな状況下、国内の混乱を制御しながら新生明治国家の基礎をつくったのが大久保である。

 もうひとりの英雄、西郷隆盛は情に厚く、日本人の共感を呼ぶ要素をもった男だが、彼を死に追いやったのが大久保だとされ、相対的に功績を貶められてしまったと私は思っている。その証拠に、本書を読めば、いかに大久保が同時代の偉人たちを魅了していたかがわかる。

 本書に登場するのは、伊藤博文、大隈重信、松方正義、大山巌、西郷従道、中江兆民、後藤象次郎。伊東祐亨、米田虎雄、中江篤介、福地源一郎、大倉喜八郎、青木周蔵、前島密、武井守正、副島種臣、佐々木長淳、金原明善、渡邉國武、山本権兵衛、林董、西園寺公望ら大物ばかり。彼らは口を揃えて大久保の偉容を語っている。

 そのなかで、ひとつだけ松平慶永(春嶽)の言葉を紹介しよう。

 ──古今未曾有の大英雄と申すべし。胆力に至っては世界第一と申すべし。維新の功業は大久保を以って第一とするなり。世論もともあれ、大久保の功業は世界第一とするゆえんなり──。

 松平春嶽といえば、幕府側の人間だ。その人物が憎き敵であったはずの大久保をこうまで評価しているのだ。

 大久保自身の言葉も収録されている。なかでも印象的なのは、困難に直面した際の心構えとしてこう語っていることだ(筆者が現代語訳)。

「ある目的地に向かって行くにあたり、行きづまっとしても、万難を排して踏破したり迂回したりと、臨機応変に適切な手段を用いなければならない。そこで静定の工夫をすれば、必ずどこにか活路が見出される。そして行き着こうとするところに到達するものである。ただ困ったと思うばかりでは、いつ目的地に到達できるかわからない。たとえ行きづまっても、行きづまらないように心がけていなければ大事業は成し遂げられるものではない」

 その言葉の通り、大久保の前にはとうてい克服できそうもないさまざまな難題が立ちはだかったが、彼はそれらをひとつひとつ不屈の精神をもって乗り越えている。難しければ難しいほど、彼は発奮したようだ。

 内務省の執務室に大久保の靴音が響いただけで、それまでざわついていた空気が瞬時に水を打ったように静かになったという。それは、どれほどの威厳であったのか直に触れてみたいと思うが、現今そのような人物がいるはずもない。

 大久保は冷徹というイメージがあるが、子供たち、特に娘たちにはことのほか愛情を注いでいたようだ。いくつの心温まるエピソードが彼の人間の幅を表現している。

 最後に、大久保がいかに無私の政治家であったかを記そう。

 内務卿に就任してからの大久保は、絶大な権力を一身に集めていた。現在でいえば、総理大臣のほか、重要な省の大臣を5つか6つ兼ねるほどの権力を持っていた。

 明治11年5月14日の朝、大久保は紀尾井坂で襲撃に遭い、絶命した。彼が凶刃に倒れたあと、世間の関心はあることに集まっていた。あれだけの権力を背景に、いったいどれほどの蓄財をしていたかと。当時、すでに明治新政府の要人たちが汚職に手を染め、不正に蓄財していたという背景があったから、なおのこと関心が高まっていた。

 しかし、大久保家の蓄えは、わずか140円しかなかった。いっぽうで借財は8000円という巨額に達していた(明治10年当時と比べ現在の貨幣価値を1万5000倍とすると、預金210万円に対して、借金は1億2000万円)。あれだけの権力を手中にしながら、これほど無私を貫いた政治家は世界にも二人といないだろう。

 彼は、公共事業の予算が足りないとき、個人で知人から借金し、あてがっていたのである。家も土地もすべて抵当に入っていたため、大久保の死と同時に、遺族は住居すらなくなってしまったというありさまだったことから、政府が彼の功績を鑑みて借金の返済を肩代わりしたという。まさに〝宰相〟の名にふさわしい生き方だった。

 

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