人はどういう人なら満足するのか
果たして人は恋愛によって死ぬことがあるのか。長らくフランス文化に親しんでいると、そういう疑問が湧き上がってくる。ジッドの『狭き門』をはじめ、愛が破綻し、その痛手のあまり命を落とす場面がたくさんある。パトリス・ルコントの映画『髪結いの亭主』に象徴されるように、愛のピークであえて自死を選ぶことも少なくない。恋愛が冷めていくのは耐えられない、それであれば絶頂期にピリオドを打とうということなのだろう。
フランス以外のヨーロッパ文化圏にもそういう傾向があるのかどうかはわからないが、日本人は愛を失っても〝耐えて生きる〟ことを選択することが多い。
そんなフランス人独特の恋愛観の源流になっている作品が、ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』。17世紀に書かれ、「恋愛心理小説の祖」とも言われている作品だ。
16世紀、ヴァロワ王朝アンリ2世の王宮が舞台で、登場人物の多くは実在の人物で、作者自身、ルイ14世の宮廷で王族に仕えていたこともあり、描かれている宮廷の様子やさまざまな事件は歴史に忠実に表現されている。
物語を簡単に記そう。
この物語の主人公シャルトル嬢の父親は早逝し、母親の手で厳格に育てられた。その母親に連れられて宮中に行った時、クレーヴ公に見そめられ、結婚を申し込まれる。シャルトル嬢は気が進まなかったが、母親の薦めもあってクレーヴ公と結婚し、「クレーヴの奥方」となる。
その後、奥方はある舞踏会でヌムール公と出会う。二人はすぐ恋に落ちるが、思いを相手に打ち明けることはしない。
その後、夫のクレーヴ公は奥方に疑念を抱き、好きな男がいるのかと問い詰める。奥方は相手の名を伏せて、好いている人がいると打ち明ける。夫は激しい嫉妬を覚え、近侍に探らせると、思った通りヌムール公が夜中、奥方の部屋に忍んでいことがわかる。奥方はヌムール公と会うことを拒んだのだが、夫はそうとは知らず、絶望のあまり病に倒れ、死の床で夫は奥方の不義を責める。奥方は潔白だったが、深い悲しみを味わう。
クレーヴ公が死んだことで障害がなくなったヌムール公は、あらためて奥方に告白する。奥方もヌムール公を愛しているが、ヌムール公の元から去って行く。奥方はその後、修道院に入り、若くして亡くなる。
なぜ、クレーヴの奥方はヌムール公との結婚をためらったのか。そして、一人寂しく修道院に入ることを選んだのか。これは読者に突きつけられた永遠の課題である。亡き夫に対する自責の念か、あるいは公明正大な結婚に、もはや魅力を感じなくなったのか。
ここで見逃してはいけないことは、クレーヴ公は地位も経済力もあり、人間的にも申し分ないということ。それでも、奥方はほかの人を好きになってしまった。よーいドンで比べたら、ヌムール公よりクレーヴ公の方が優れている点が多いだろう。しかし、不確かな人間の心理の前では、そのような〝条件〟も雲散することがある。
では、なにをもって男女の紐帯は強くなるのか。
それを考えるきっかけを作った作品ともいえる。だからこそ「恋愛心理小説の祖」と言われ、何百年も読み継がれているともいえる。
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