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紺碧の将

孤高の人が達した、画文の世界

file.116『命といふもの 堀文子画文集』堀文子 小学館

 

 2019年、100歳の天寿をまっとうした堀文子。大磯の山中にこもり、人との接触を極力断っていた。お手伝いさんはいたものの、死ぬまで孤高の存在を貫き通した。

「生きている間は1ミリでも成長し続けたい」と自分を叱咤し、創作や思索に打ち込む姿は、多くの人を魅了した。

 堀文子は、こう書いている。

 ――見るもの聞くもの近頃の世の姿が腹立たしく、今の私は落語の〝小言幸兵衛〟そっくりの老人になってきた。

 

 自己にも他人にも厳しく、バイロン的気質にあふれた彼女にとって、現代社会は生きづらかったにちがいない。

 正直、画家としては、一流ではないだろう。悪くはないが、突き抜けてはいない。草花にしても酒井抱一ら先達の到達した境地と比べると物足りなさを感じてしまう(失礼)。小倉遊亀が晩年に獲得したような、素朴な味わいが彼女の真骨頂だと思うが、独自性が希薄だ。

 しかし、文章と合わせると、輝きがいや増す。その全貌が、『命といふもの』という全3巻のシリーズにまとめられている。

 自作に添えられた彼女の文章を読むと、その観察眼の細やかさに驚かざるをえない。

 ――蜜柑をむく度に、私は神の造る生命の形の完璧さに息を呑んだ。フェルトを張った宝石箱の中で、蜜柑の嬰児は白い血管の網に包まれて大切に育てられたのだ。

 

 ミカンを食べるときの目線は、画家のそれというより、宇宙の観察者そのものである。

 これこそが文章なのだ。堀文子は、自分を文筆家と思ってはいなかったかもしれないが、彼女の文章を読むと、自分の文章が恥ずかしくなる。

 視点は融通無碍、射程は長短自在で鋭さはカミソリのよう。絵と文章の組み合わせとなると、堀文子の右に出る人はいないのではないか。

 長谷川等伯展を見たときの様子がこう書かれている。

 ――まず、会場に入り、「生命感に溢れる等伯の膨大な作品群に囲まれて、私は強い電流に打たれ、一瞬気を失いそうになった」とある。90歳を超えた人が、絵を見て感動し、失神しそうになるのだ。その、凄まじい感性の純度に驚くほかない。

 さらに、「400年前とは思えぬ新鮮な気迫が作品の中の木や草や岩から立ち上り、会場の空気が袈裟懸けに切りさかれたような迫力に包まれるのを感じた。濃い霧の流れる松山に迷い込んだようになり、松林図屏風の前で私は身動きもできなかった。霧に見え隠れする松の幹も葉も叩きつけるような速さで一気呵成に此の空間は仕上がっている。たっぷり水を含んだ和紙に霧が動く松山。ここは宇宙に続く空間。この凄さは修練や努力でできるものではない。神の手をもつ等伯を見た」と続く。

 

 私もその等伯展を見たから会場の異様な雰囲気は覚えているが、こんな表現は到底できるものではない。

 堀さんの死生観も素晴らしい。

 ――若い頃、観念で想像した底知れぬ死の恐怖がいつしか消え、老いを生きる私の体の中で生と死が穏やかに共存しているのを感じる。

 ――自然は生きた日々の恨みつらみを消し、決して老残の醜さを見せない。死を迎える時の、あの紅葉の華やぎは命の輪廻を讃える神の仕業だと思う。

 

 無心に生きるものには幸せも不幸せもない。私もやっと、苦しみ傷ついた美しさに気付く時が来たようだ。

 歳を重ねるごとに、彼女の思考と感性は深まり、1ミリでも成長し続けたいという言葉通り、人生のピークで最期を迎えた。

 あっぱれな生き方である。

 彼女が遺した作品と生き様は、後世の人たちに無量の示唆を与えるにちがいない。

 

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