民主政下の天皇と軍の大元帥の狭間で
激動の昭和期において、もっとも重要な役割を果たした人物といえば、昭和天皇をおいてほかにはいないだろう。拙著『偉大な日本人列伝』でも書いたが、あの時代、昭和天皇を戴いていなければ、わが国はもっと悲惨な状況に陥ったはずだ。
本書のあとがきで、著者の半藤一利はこう書いている。
――昭和天皇の戦略・戦術観が秀でていたとしてもさほど不思議ではない――。
明治期に定められた皇室令第三号「皇族身位令」17条で、皇太子または皇太孫は10歳になると陸海軍の軍人になると決められていた。さらに25歳のとき、昭和天皇は明治憲法に従い、陸海軍の大元帥になっている。ものごころついたときからずっと軍の動向に知悉していたのだ。それをもって、昭和天皇に戦争責任があると主張する人もいるが、それほど単純な話ではない。
昭和天皇は軍の大元帥である以前に、立憲民主制下の天皇として政治への不干渉を定められていた。つまり、政治に口をはさむことは憲法で禁じられていたのだ。
しかし、よく知られているように、昭和天皇は2度、政治的判断を下している。ひとつが二・二六事件に際して叛乱将校を「叛軍」と断じ、鎮圧を命じたこと、もうひとつはポツダム宣言受諾を巡って内閣の意見が割れていたときに聖断を下したことである。
本書は、太平洋戦争に至った原因についての昭和天皇の分析に始まり、張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮会議、上海事件、天皇機関説問題、二・二六事件、日中戦争、ノモンハン事件、日独伊三国同盟、南仏印進駐、日米開戦などについての考えや重臣に対する人物評価、終戦に向けた御前会議の回顧等を経て、日米開戦や終戦の聖断で結ばれている。
非常に興味深いのは、昭和天皇が、敗戦の原因として以下の4点を挙げていることだ。
第一、兵法の研究が不十分であつたこと、即孫子の、敵を知り、己を知らねば、百戦危うからずといふ根本原理を体得してゐなかつたこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識ある主脳者(ママ)の存在しなかつたこと。往年の山縣、大山、山本権兵衛と云ふ様な大人物に缺け、政戦両略の不充分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であつて部下統率の力量に缺け、所謂下克上の状態を招いたこと。
精神主義に陥りやすく、自分が所属する組織の利益にこだわり全体を俯瞰して考えることができないということ、また明治期のリーダーたちに比べて太平洋戦争を主導した人たちが劣化していると分析している。慧眼と言う以外ない。それらの病弊はいまなお日本の社会に根強く残っている。
本書を読むと、昭和天皇が、近代的な立憲君主としての責務を果たさんと強い意識を持っていたことがわかる。いっぽうで、立憲君主として自分の意見を差し控えざるを得なかったがために戦争を止めることができなかったことも事実であろう。当時の軍首脳、政治家、外交官らに、昭和天皇に比するくらいの見識があったればと悔やまれるが、それは高望みというものなのだろうか。
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