女性の意識を変えた、エポックメイキング的作品
本コラムの前々回、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を紹介したが、シャーロット・ブロンテはエミリーの姉。
文学好きの間では、『嵐が丘』と『ジェーン・エア』のどちらが好きかという話題が多い。発表当時、『嵐が丘』の評価は芳しくなかったが、今では『ジェーン・エア』を上回っている。『ジェーン・エア』は物語に起伏をつけようとしたためか、不整然なプロットが多いというのが理由のようだ。私はどちらかといえば、『ジェーン・エア』に軍配をあげる。もちろん、『嵐が丘』が偉大な作品であることは言うまでもないことだが。
たしかにジェーンの行動は突飛で一貫性がないと言われてもしかたがない。しかし、終始、行動に一貫性のある人などいないにちがいない。いたらその人はロボットに近い。もともと人間の行動に一貫性などないのだ。絵に描いたような善人が、ある日突然、悪事に手を染めることもある。
私にとってジェーンの突飛な行動は、すべて想定範囲内である。
通常、女性の主人公であれば、ほとんどが美人である。絶世の美人ではなくとも、女性としてそれなりの魅力をもった人でなければ主人公にならないというイメージが定着していた。しかし、ジェーンは不器量だ。しかも、社会が無言のうちに規定している〝女性としての生き方〟など歯牙にもかけていない。つまり、当時としては珍しく、かなり自己主張が激しく、自立した生き方を求めている女性なのだ。
現代であれば男女平等は当たり前、ジェーンのようなタイプの方が多数派。むしろ、男に依存して生きようと思う女性は、天然記念物といってもいいだろう。だからジェーンの女性としての先進性は伝わりにくいが、1847年の刊行当時、これは大胆な設定だった。ある意味、社会への挑戦状でもあった。その証拠に、刊行当初、この作品はシャーロット・ブロンテという本名ではなく、カラー・ベルという男性名で出版されている。そもそも女性が小説を書くなど、非常識とされた時代なのだ。その点、平安時代に紫式部が『源氏物語』という長大な小説を書いた日本文化の寛容さは大変なものだと思う。
本作は、孤児で可愛くもないジェーンが親類に養育され、やがて家庭教師として住み込んだ家の主人エドワード・ロチェスターと結ばれるまでを描いたもの。ラブ・ロマンスのひとつと思われがちだが、そんな薄っぺらな作品ではない。
ジェーンは自分の力で職業を勝ち取っている。そのうえ、ロチェスターとの結婚も、ロチェスターがジェーンを選んだわけではない。ジェーンがロチェスターを選んだのだ。この時代、多くの読者を獲得した本作の社会的影響がどれほど大きかったか、リアルにはわからないが、女性の意識を変えたことは明らか。
じつは私が本作を好きなのは、そういう理由ではない。単純に物語が面白いのだ。どこにでもいそうな一人の女性が、意識的に自分の人生を切り拓いていく。その過程がめっぽう面白い。
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