与えるものと与えられるもの
シェル・シルヴァスタインの『おおきな木』という絵本は、あっという間に読み終わるのに、深い余韻がいつまでも続く。優れた絵本のお手本のようだ。
よく知られているように、この絵本は2つの訳がある。旧訳は1976年、本田錦一郎によって訳されたもの、新訳は2010年に村上春樹によって訳されたもの。
少年と仲のいい、おおきな木の物語である。無邪気だった少年が成長し、分別がつくようになると、おおきな木と遊ぶのがつまらなくなり、いろいろなものを欲しがるようになる。おおきな木は少年が望むままに与える。最後は幹までも与え、切り株だけになってしまう。やがて年老いた少年は、木のところに戻って来て切り株に座るというシーンでラストを迎える。
「これぞキリスト教の無償の愛だ」「少年は身勝手過ぎる」「いや、少年は神の化身ではないか」など、いろいろな意見や感想があるだろう。
2つの訳書の違いについても話題になった。「but not really」の訳が本田氏と村上氏では解釈が異なっているのだ。
英語に長けた私の知人は、次のように解釈してくれた。
「本田さんはこの文を『きは それで うれしかった……だけど それは ほんとかな』と読む人に疑問を投げかける形で訳した。しかし村上さんはこの文を『それで木はしあわせに…なんてなれませんよね』と訳している。ふつう、英語で not really という時はどちらでもない含みがある。しあわせだけど、しあわせじゃないアンビバレントな気持ち。
正解のヒントは後の段落にある。
And so the boy cut down her trunk and made a boat and sailed away. And the tree was happy… but not really.
とすれば、訳は『そして木は幸せでした。でも、そうでもありませんでした』。もっとはっきり訳せば、『そして木は幸せでした。でも、悲しくもありました』となる。
And after a long time the boy came back again.
“I am sorry, Boy,”
said the tree,” but I have nothing left to give you –
この場合のI am sorry, Boy,とは……、
悲しい理由は、「もうあげるものがなにもない」からだ。そう思っていた木は、最後に座らせてあげることができて、もう一度幸せになることができた。
そして、And the tree was happy で終わっている。
(Come, Boy, sit down. Sit down and rest.” And the boy did. And the tree was happy.)
どう読み解くかは本人次第。簡単な英語だから、トライできるはず。
ところで、この絵本にインスパイアされたのか、佐野洋子さんが『おぼえていろよ おおきな木』という絵本を書いている。
おおきな木が与えてくれることには目がいかず、マイナス面だけをことさらに強調して「おぼえていろよ」と木の幹を足蹴にするおじさん。ついに彼はおおきな木を切り倒してしまう。
しかし、木がなくなったことによって、それまで木から得ていたものがなくなってしまったことに気づいたおじさんはうろたえ、最後は切り株にしがみついて泣く。
すると、目の前に小さな芽が出ているのを発見する。そして、おじさんは毎朝、新しい芽に水をあげるという物語。
しかし、このおじさん、本心から悔い改めたのだろうか。案外、木が大きくなると、また同じことをするかもしれない。
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