死ぬまでに読むべき300冊の本
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紺碧の将

とことん好きなものがあるって幸せなことなんだ

file.144『聴く鏡』菅原正二 ステレオサウンド

 

 帯のコピーがいい。

「趣味は面倒なものに限る。面倒は愉しみを持続させ、楽はアクビをさそうだけ」

 岩手県一関市にあるジャズ喫茶「ベイシー」のオーナー菅原正二氏の言葉である。その店の特色は、「日本でもっとも素晴らしい」と言われているオーディオ装置である。私はその音を求めて何度か足を運んだことがあるが、本書について書く前に、その時のエピソードを書いてみたい。

 訪れる前、ライブがあればいいなと思い、電話をした(ホームページにはそのような情報はいっさい載っていない)。

「今後のライブ情報を知りたいのですが」

「9月は○○、12月は○○」

 電話の相手はぶっきらぼうに答えた。

「その他にはないんですか」

 訊いてしまった私が迂闊だった。少し間を置いた後、電話の相手はこう答えた。

「うちはしかたなくライブをやってるんだよ、断れなくて。そもそもうちはレコードを聴かせる店なんだから」

「ああ、そうでしたか。失礼しました」

 私はそそくさと電話をきった。

「レコードを聴いてもらう」ではなく「聴かせる」というところが泣かせる。

 というような経緯があったが、私は基本的にそういう屈折した人が好きである。

 店に入ると、大音量でジャズが流れている。一瞬、ライブ演奏をしているのかと思うほどナマのサウンドに近い。アナログレコードをかけているだけなのに。開店して50年以上になるはずだが、オーナーである菅原正二さんの魂が隅々まで行き渡っていると感じた。

 帰るとき、レジで購入したのが本書である。クセのある文体で、読みづらいのだが、ときどき不意を突かれる文章がある。感性と信念が際立っている。そして、なぜ、あれほどまでにとてつもない音を再現できるのか、一端を知ることができた。

 理想の音を求めて、あらゆる努力を惜しまない。時間も労力も、そして費用も。レコードをなぞる針からアーム、ターンテーブル、プリアンプ、メインアンプ、そしてスピーカー、そのいずれにも可能な限りの注意を払い、何度も実験を繰り返し、長時間かけてバラしてはまた組み立てる。果ては、室内の他の照明器具などが電気的に及ぼす影響など、ありとあらゆるところに意識を向け、自分が納得のいくまで試行錯誤を繰り返す。

 菅原氏にとって、安定的にいい音が出ている状態は、「不可」らしい。さらなる良い音を求め、深い森の中へ分け入って行く。その大半は行き止まりで退却を余儀なくされるにもかかわらず。

 結局、彼は答えのない世界でありったけの情熱を注ぎ、自分の答えを求めているのだ。だからこそ、東北の片田舎で(失礼)、長期間にわたってあれほどの空間を維持できているのだと思う。本書を読むことによって、それがわかる。つまり、彼は「面倒は愉しい」という真理を知っているわけだ。

 数年前、『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩』というドキュメンタリー映画が公開された。好きなものがあるって、こんなにも人を幸せにするのか! そう思わずにはいられない、素敵な映画だった。

 

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