よりよい人生を生きるために
本書のまえがきに、こうある。
──日本には、歴史を貫いて流れる一筋の水脈があります。私はこれを「清く美しい流れ」と呼んでいます。これこそが、日本らしさの根源なのです。日本人とは、この流れの川岸に暮らしてきた民族なのです。
以前に増して悪いニュースが流れていることで、日本人の劣化がさかんに言われている。闇バイトを使っての強盗、ガーシー、臓器移植事件……。それが現実の一面だとしても、日本人の根っこに「清く美しい流れ」があるのだと思えば、希望も湧いてくる。
本書のテーマは、「よりよく生きるために」。ある意味、人生のハウツーと言ってもいいだろう。しかし、世に反乱する人生のハウツーものと一線を画すのは、ことごとく本質に則ったものの見方・考え方に貫かれているということ。
著者はまず、自分を幸せと思っていない日本人が多いことに言及する。その理由を、借り物の「生き方」をしているからだと見る。つまり、自分がこう生きたいからというのではなく、人が(みんなが)こうしているから、世の中がこうだから、という尺度でしか自分の生き方を決められないから閉塞感を覚えるのだと。
しかし、無制限に「自由」を推奨してはいない。むしろ、自由の履き違えを戒める。例えば、かつて日本の美風としてたしかにあった規範に関して、次のように書いている。
――正という字は「一」と「止」でできています。つまり「この一線で止まれ」という意味です。それが規範です。人生は判断の連続。よい判断をするためには判断の基準、定規が必要です。戦後教育は知識偏重で、規範形成を怠ってきました。法律は、起こりうる事象のすべてを想定しては作れないのです。
また、国が健全であるかどうかを見極める材料の一つとして、その国の社会に「美風」があるかどうかがあります。戦後は、見えないものは非科学的だとしてバッサリ切って捨てられました。計数で立証できないものは科学ではない、非論理的な前近代的なものとして認められなかったのです。美風や伝統は、見えない(計数化できない)ものだからこそ貴重なのです(適宜抜粋)。
社会は、自己と他者の二者で成り立っているとも書いている。自己は自分ひとり、他者は自分以外のすべての人々。従って、利己主義は必ず行き詰まると。生きていくうえで基本中の基本を教えられていない現代の日本人は、不幸だともいえる。
2002年、岐阜県の小学校で、6年生に対し「透明人間になったら何をしたいか」という設問をし、その答えを文集にしたが、「人を殺す」「強盗する」というような答えがいくつもあり、ちょっとした話題になったことを思い出した。学校側は「チェックが不徹底でした」と謝罪したが、そういう問題ではないだろう。バレなければ殺人や強盗をしたいと考える小学6年生がいるということが問題なのである。あれから20年以上、その子たちの世代が大人になり、現にそういうことをしている人がいる。
美風を備えた日本人と、悪化の一途をたどる日本人。人間性の面でも格差・分断が進んでいるのだ。
それを是正するには?
特効薬はないと心得るべきだ。本書に書かれているようなことを見直し、教育を変えていく以外にないと思うのだが、残念ながら、教育の実権を握っている人の多くが実数主義に冒されている。本来、教育は「よりよい人生を生きるために」行われるものであるなずだが、いつしか受験勉強で高い点数を取るためのものに成り果ててしまった。
余談ながら2009年6月、私は著者の田口氏と初めてお会いし、当時発行していた『fooga』の特集記事で氏をご紹介した後、祖師ヶ谷大蔵で行われている講義に通うようになった。
あの時の感動をどう表現すればいいのだろう。50歳にして初めて、ものごとの本質を教えてくれる師に会ったと思えた。
コロナ禍になるまで講義に通い続け、老荘思想、儒学、神道、禅、日本の文化、歴史、経済や政治など、学んだことは限りない。それが現在の自分の血肉になっているとあらためて感じている。
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