ピアノを媒介とした豊かな時間
この豊穣な空気感の源はなんだろう?
パリのセーヌ川左岸・カルティエにあるピアノの修理工房兼中古販売店〈デフォルジュ〉を舞台にした本作の底に流れる豊かな情感を味わえめば、無性にクラシック音楽(特にピアノ曲)が恋しくなってしまう。
現代の功利主義の真逆をいく売り方がいい。主人公である(著者を投影)「パリのアメリカ人」が足繁くその店に通い、自分に合った中古ピアノを探してほしいと言うのだが、店主のリュックはこう言う。
「うちと取引したことのある人の紹介があれば、あんたが探しているピアノを見つけやすくなるかもしれない」
つまり、既存の顧客の紹介がなければ売らないと言っているのである。
パリのアメリカ人こと「わたし」は運良く紹介してくれる人を通して、ベヒシュタイン(ドイツ製のピアノ)のベビー・グランドを購入する。そして「わたし」の生活は、音楽を軸として展開していく。
カーハートのタッチが独特だ。文体はあくまでフィクション風。しかし、記述されている内容はノンフィクションであり、エッセイともとれる。
通底しているのは、音楽に対する深い愛着である。場所がどこであろうが、ピアノを目にすれば立ち止まらずにはいられない。そんな彼は、「イタリアの宝石」という異名をとり、「世界最高のピアノ」と評価されるファツィオーリの工場を訪ねる。そこでオーナーと交わす会話には、ピアノのなんたるかが凝縮され、モノ創りの真髄を見る思いである。
あるピアニストに日本人ピアニストが質問するくだりがある。
「どうすればそんな跳ねるようなタッチで弾けるようになるんですか」
答えはこうだ。
「レオナルド・ダ・ヴィンチは何年もかけて体のあらゆる部分のデッサン帳を作った。彼は耳を描き、肘を描き、手を描いた。体のすべての部分をできるかぎり多くの視点からデッサンした。それから、それをすっかり忘れて、目に見えたとおりに描いたんだ。それと似たようなことをする必要があるということだろうね」
これは表現を生業にするすべての人間に言えることではないか。基礎をとことん習熟し、そしてそれを忘れる。すると、技術的なことから解放されて、真の表現ができる。
本書の裏表紙に、ピアニストの青柳いづみこ氏が次のような文を寄せている。
――ショパンの好んだ銘器プレイエルは、羽根のように軽く、蜂蜜のように甘い音がする。鐘に似た響きをもつベートーヴェン時代のピアノから、4本もペダルがついているイタリアの最新式まで、出てくるピアノというピアノをみんな弾きたくなってしまった。自分だけのピアノに巡りあったときの、音楽の腕にすっぽり抱き込まれるような感覚。すべてのピアノを愛する人々、とりわけ大人になってからピアノを始める人には必携の書だろう。
豊かな人生の第一条件、それは「たまらなく好きなものがある」ということであろう。
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